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★臨死体験研究読本★
臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』は、精神世界を論じながらも、具体性があるため、説得力があり、読み手にも理解しやすいものに仕上がっています。しかも、一向にテンションのおちない確信に満ちた筆致の迫力は全編に渡っており、かつてない熱気に満ちた力作です。◆これまでの外国の研究などの器用な整理やまとめをする日本の学者は多いでしょうが、本書は、独自の考察と分析によって外国の評価の高い研究を批判し、それらに対する自らの主張を明確にする、きわめてオリジナリティーの高い作品です。
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不可触民の道―インド民衆のなかへ (知恵の森文庫)
評価:
山際 素男
光文社
(2001-09)
不可触民の道―インド民衆のなかへ (知恵の森文庫) 

同著者の『不可触民・もうひとつのインド』は、著者が1977年にインドを再訪したときの見聞をもとに、最初は1981年に三一書房から出版されている。本書は、著者が1980年から81年にインドを訪れたときの体験を元にしている。前著にもまして凄まじい不可触民差別に接して唖然としてしまう。

インドにおけるカースト的な差別と暴力が、どれほどに広く深く社会の底辺に巣食っているのかということが、読めば読むほどに分かってくる。同時に、一部の不可触民が、そのような抑圧から目覚め、組織的な抵抗を試み、大きな変化を巻き起こし始めていることも分かる。とくにアンベードカルが50万不可触民とともに仏教に改宗した都市、ナグプールの仏教徒たちの、驚くべき変化は、その地で活躍する日本僧・佐々井秀嶺の活動とともに印象深く語られている。

この本ではとくに、著者がインドの最底辺の人々と接していくうちに、上層であろうと下層であろうと、インド人のすべてに共通する、ある精神性への気づきを深めていく過程が注目される。著者はいう。インドの悲惨さは民衆の無知に深くかかわる。その考えは変わらない。しかし、そのことと、人々の神への傾倒、深い宗教性、「神信心」とが深く密着し、それが人々の無自覚な状態を支えていると、今までは考えていたという。しかし、著者の考え方は次第に変わっていく。インド民衆の無知と、それゆえの悲惨さ、それと彼らの深い宗教性はまた別のこと、次元のことなった問題なのではないかと。

「インド人は、特に底辺の民衆はある意味で、在るがままに生きている。無知であるとともに、先祖から受け継いできた大きく深い『智慧』をももち、それに支えれられ、辛うじて、ではあっても、それがなくては生きえない逆境を乗りこえてきている。それが人びとの、大きな遺産なのではないか‥‥」、そう著者は感じるようになったという。唯物史観的な考え方をもっていた著者にとっては、これは重大な発見だったのかもしれない。このテーマは、本書で何回か繰り返されるのだが、最終的には、著者が気づきを深めていったという、著者が理解する「インドの精神性」というものに、あまり魅力を感じなかった。この著者の「精神世界」への理解に深さが足りないからかもしれない。

それよりも、本書の最終章では、佐々井秀嶺がインドに行ってから、どのようにしてナグプールに導かれ、どのようでにその地での活動を開始したかが、本人の言葉で詳しく語られている。インドを発とうとした最後の晩に金縛りにあった状態のまま、光り輝く老人から「我は竜樹なり、南天竜宮へ行け」と語りかけられたという話は他でも読んだが、その詳しい状況や前後の経過を知ると、非常に強い印象を受ける。

インドのどん底、その地獄を知っていれば、南天竜宮はナグプールだと判断しただけで、その見知らぬ土地に単身乗り込んでいくことは、生命の危険をも覚悟しなければできることではないという。しかし佐々井師は旅立つ。そこに、本人の意志を超えた強い導きがあっただろうことを改めて感じた。あらためて『破天』を読んで見たいと思った。

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仏教・インド思想23:44comments(0)trackbacks(0)
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近代インド思想の形成
評価:
玉城 康四郎
東京大学出版会
(2001-01)
★『近代インド思想の形成』★

著者、玉城康四郎は、仏教学者として多くの著作を残している。しかし重要なことは、単なる学者ではなく、若き日からの座禅の実践のなかで、深い瞑想体験をもち、学問的な研究が体験に裏打ちされていることだろ。それはきわめて稀なことだ。

本書は、600頁に及ぶ大著だが、ヴィヴェカーナンダとオーロビンドを中心として近代インド思想の形成の過程を追う労作だ。前半、インドの伝統思想が近代西欧との出会いと対決を通じて、どのように自己を変革していったか、を扱う重厚な論考だ。

後半、とくにオーロビンドについては、日本での本格的な紹介は少なく、彼の思想についての論考だけでも一冊の本をなす内容である。

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仏教・インド思想18:53comments(0)trackbacks(0)
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仏教要語の基礎知識 (1972年)
評価:
水野 弘元
春秋社
(1972)
仏教要語の基礎知識 (1972年)

原始仏教の姿をほぼ性格に伝える本として、ある人に薦められて読んだ。原始仏教、部派仏教を中心とし、その「教理要目」を体系的にまとめている。煩雑なところもあるが、基本を学ぶには便利だ。また、ところどころに大乗仏教との相違点もまとめられているので、その点でも役に立った。

現在私が関心があるのは、ブッダその人は瞑想をどのように説いたのかということだ。原始経典のなかにも多くの実践修道の教えがあるようだが、そのもっとも代表的な実践論は、部派仏教で三十七菩提分法としてまとめられた、七種類の修道説だという。その中でももっとも高い立場の修行法が七覚史で、主として禅定に関係している。原始経典の中には、安般念(あんぱんねん:数息観――出入の呼吸を数えて精神統一をなす)の後に四念所観修し、それから七覚支の修行に進み、明(悟りの智慧)と解脱が得られるとしているものがあるという。

こうして原始経典の段階できわめて多くの修業の体系がしっかりとまとめられている以上、ブッダが瞑想(禅定)を否定したとか、説かなかったとかいう説をとるのは、かなり無理がありそうだ。もう少し調べたいとは思っているのだが。

この本の内容でもうひとつ書きとめておきたいことがある。仏教の大問題のひとつに、仏教は無我を説くのになぜ輪廻転生を認めるのかという問題がある。著者は、これについてわずか3行であっさりと次のように論述している。

「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、人格の主体としての業(ごう)を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識法相の学説では阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。」(149頁)

基本は、まさにこういうことなのだろう。突っ込んだ議論をすると、問題は山ほどでてくるのだろうが。

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仏教・インド思想10:40comments(0)trackbacks(0)