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評価:
アーノルド ミンデル,エイミー ミンデル
春秋社
(1999-08)
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うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践◆
思わず「やはりミンデルは素晴らしい」と呟きながら夢中で読んだ。これは、エサレン研究所でのワークショップの記録であり、プロセス指向心理学についてのミンデルの講義とプロセス・ワークの実際との記録である。プロセス・ワークは、ユング派の分析家であるアーノルド・ミンデルが創始したセラピーの技法だが、セラピーという枠を越え幅広い展開を見せる臨床学となっている。
これまでに読んだミンデルの何冊かの本の中では、私にとっていちばん刺激が多かった。実際のプロセス・ワークを元にし、具体的で分かりやすいということもあるだろう。同時に私自身がヴィパッサナー瞑想を実践するようになり、その観点から比較しつつ読んでいるという理由もあると思う。
プロセス指向心理学では「自覚」(アウェアネス)が非常に重要な役割を果たす。全体的になること、すなわち気づいていた側面に加えて、気づいていなかった側面にアクセスすることを、プロセス指向心理学では「意識」の本来の働きと考えている。
「私たちがすべきことは、自分および人々がどのように物事を知覚しているかに気づくことです。そうした知覚の展開を自覚していると、以前には静的な状態が統治していたところに流動的なプロセスが創造され、思いがけない発見や豊かさがもたらされるでしょう。」
気づいていなかった側面が自覚にもたらされると、それ自身で展開し、成長し、解決する創造的なプロセスが生まれる。「丁寧に観察しながらプロセスに従う」という方法は非常に高い普遍性を持っている。ヴィパッサナー瞑想に共通し、しかもヴィパッサナー瞑想を、心理学の立場から豊かに意味付けしているように感じる。少なくともヴィパッサナー瞑想は、自覚にともなうプロセスの展開については強調していない気がする。
ワークの実際場面で言えば、「起こりつつあること」がそのプロセスを全うできるようサポートする。見落とされている「起こりつつあること」を十分に自覚して関われば、症状や対人関係、身体感覚や動作などとの関係が深まり、統合され、症状が役割を終えて消失することも起こるという。
強く引かれるプロセス指向心理学の考え方に「ドリームボディ」がある。ミンデルの基本となる考え方のひとつだ。ミンデルは、もし身体の調子が悪ければ、おまえは病気なんだとみなす考えに納得できなかった。夢分析中心の伝統的なユング派の臨床を続けるうちに、実は体に現れている症状も夢と同じように無意識の創造的な発現なのではないかと思うようになる。夢には意味があるように身体に起こっていることにも恐らく意味がある。それは単に病理的なものでも、悪いものではない。
夢と身体症状は、お互いがお互いの分身であるかのようだ。夢に現れるイメージも、身体に現れる何らかの症状も根元は同じで、たまたま夢という形を取るか、身体症状という形を取るかの違いに過ぎないと考え、その、同じ根元を夢と身体の一体になったものとして「ドリームボディ」と名づけたのである。
ドリームボディのメッセージは、やがて夢と身体だけではなく動作、人間関係、共時的な出来事を含めた様々なチャネルを通して現れてくることが発見され、そこで起こっている出来事を丁寧に観察してその流れについていくことが重要だという、プロセス指向心理学へと発展した。無意識は、そのメッセージを伝えるために、様々な感覚器官(チャンネル)を利用する。それが夢の視覚イメージであっても、身体の体験であっても、人間関係や出来事であっても、メッセージとしての働きは同じだというのだ。
私がミンデルにいちばん引かれるのは、病気や身体症状などのマイナスと把握されやすいものに隠されたメッセージ・知恵を信頼し、それを自覚的に生きることによって全体性が回復されるという点だ。
「この病気はとんでもない」と言いつつ、同時に「これは何と興味深いのか」という。苦しみに嫌だというだけではなく、なるほどという眼を向ける。死を恐ろしいと捉えるだけではなく、死は何か大切なことを教えてくれるものと捉える。それらを無視するのではなく、自覚的に充分に体験し生きようとすると、無視されていたプロセスが、自ら展開し、成長し、私たちをより全体的な統合へと導いていく。
タオあるいは自然に従うとは、私たちが好まないことにも注目し、それに従うことをも意味する。自分のやりたいことに注目するだけではなく、自分の意に反した、ばかげたことを拾い上げ自覚化する。日常的な意識の様式を裏返えし、「うしろ向きに馬に乗る」。トラブルの中に隠された可能性を見抜き、何かが展開しようとしている種子を見出す。そうするとタオがそれ自身のプロセスに従って全体性が回復されていく。
タオとは、意識の外に追いやられ無視された内と外の現実に目を向け、それを自覚し生き抜くことによって始まる統合へのプロセス。統合へのプロセスは、人間の「はからい」を超えている。そのプロセスへの信頼。タオへの信頼。
しかもタオへの信頼が、プロセス・ワークという実践に裏付けられている。これまでにも無意識と意識の統合を説いた心理学者は多くいただろう。ミンデルは、人智を超えた統合のプロセス(タオ)そのものを中心にすえ、それに限りない信頼を置く。
ミンデルには、心理療法のこれまでの理論家に感じたのとは違う根源性を感じる。それはやはり、パーソナリティではなく、タオと表現されるような、生成し展開するプロセスを中心あるいは基盤にすえているという点だろうか。トランスパーソナル心理学でさえ中心はやはりパーソナリティであり、パーソナリティを超えるにしてもパーソナリティの視点があってこそのトランスパーソナルなのだ。
ミンデルにおいては、しかも生成し展開するプロセスそのものへの信頼が、実践の中で現実に起こるプロセスとして確認される。その豊富な事例。そこがミンデルの魅力のひとつであり、特にこの本の魅力でもある。
最近たまたま河合隼雄の『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日新聞社)を読む。この中に次の言葉があった。
「私は心理療法をはじめた若い頃、どうしても自分が役に立ちたい、自分の力で治したい、という気持ちがあって、そのために、自分が病気になるのではないか、と思うほど疲れたが、そのうち『私の力』で治すのではないことが実感されてきた。もっと大きい力によって治ってゆくことがわかるようになったので、あまり疲れなくなった。」
この話は、河合の他の本でも読んだ記憶があり、疲労の度合いは周囲の人が心配するほどだと書いてあった。今回読んで「あっ」と思ったのは、「もっと大きい力によって治ってゆく」という部分だ。
「大きい力」とは、セラピストや患者を超えたところから来る大きな力というニュアンスがある。
ミンデルは、かかわりをもつ人間の中に、あるいは人間同士の関係のなかに、さまざまな現実そのものの中に、それらに即して、全体性を回復するうねりのような力を見ている。押さえつけていたもの、無視したり抑圧していたりしたものを明るみに出し、それらが充分に働くようにすれば、それが展開することで全体的な調和が生み出される。「大きい力」を心身や社会という現実そのものに内在する運動と見ている。
河合がいう「大きい力」も実際には、それと変わらないのかも知れないが、ミンデルのようにタオの内在性を強調してはいない。ミンデルに私が引かれるのは、この現象に内在する知恵への信頼によるのかも知れない。