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評価:
河合 隼雄
岩波書店
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生と死の接点■
西洋近代の自我は、男女を問わず、男性の英雄像で表される。怪物を退治した英雄が、怪物から奪い返した女性と結婚するという、西欧の昔話に典型的なストーリーは、西欧の自我像を端的に表現している。
それは、母親殺し、父親殺し(自立を阻む無意識的なものを断ち切る)の過程を経て、自らを世界から切り離すことによって自立性を獲得した自我が、ここに一人の女性を仲介として、世界と新しい関係を結ぶことを意味する。西洋近代の自我は、壮年男性の自我をモデルにしていると言ってよい。
しかし、人間の意識にはいろいろなタイプがあり、ヨーロッパ型に対して、もっと他の、老の意識、女の意識、少年の意識などと名付けられるものがある。日本人の自我像が老若男女いずれの像によって示されるか難しいが、日本人の意識において母性優位は、河合が早くから指摘するところだ。
いずれにせよ自我は、その統一性を保つために他の可能性を排除する傾向がある。かつて新興国だったアメリカは、フロイトの学説から、壮年男子像を強調する部分を受け取り、それで充分であったが、現在はユングも注目されるようになった。それは「名誉、権力、名声、そして女性の愛」(フロイト)というような、強い自我を確立していく人生前半の課題だけでは解決できない問題に直面したことを意味する。
壮年男子像をモデルに頑張って来た自我が、これまで無視してきた半面に気づき、取り組んでいく課題が生まれたのだ。ライフサイクルという考えが重視され、老年も含めた人生の課題が考えられるようになったのは、欧米中心主義が当の欧米でも崩壊しはじめたことを意味するかも知れない。
近代科学に代表される、可能性の飽くなき拡大や追求は、どうしても西洋的な自我と結び付いて、進歩発展や拡張の方にばかり進むが、本当の人間的な可能性は、老の意識、女の意識、少年の意識などを受容するところにあるだろう。
また、科学の知は、自分以外のものを対象化し客観的な因果関係によって見ることで成立しているが、それによって自他、心身、世界と自我などのつながりは失われがちとなる。自分を世界の中に位置付け、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見るためには、われわれは神話の知を必要とする。
それは、近代科学の発達を逆行させるものではなく、その知の基礎にあるのは「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」(中村雄二郎)であるという。
河合は、自分と世界を「宇宙論的に濃密な意味をもったものとして」捉え得る事例として臨死体験に触れているが、それは「そのような不思議な意識状態が存在し、その意識にとっては死後生の如きものが認知されたということであって、死後生そのものの存在については」判断を留保すべきであると慎重である。
本のテーマはもっと広いが、私自身の関心からまとめみた。