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評価:
エドワード クライン
大和書房
(1999-01)
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知られざる自己への旅―私の中の私を探して◆
前世療法を行う精神科医と女性ジャーナリストとの共著だ。この女性ジャーナリ スト自身が前世療法を受け、いくつかの前世を体験する。そして高所恐怖症が消え、 これまで成功したためしのなかったダイエットに成功し、自己主張が自由にできる ようになるなど、前世でのトラウマを追体験するごとに、彼女自身が変化していく。
内容はとても興味深いのだが、実際にはあまり読まれなかった本のようだ。タイトルからもサブタイトル(「私の中の私を 探して」)からも前世療法を扱った本だとはわかりにくい。それも読まれなかった理由のひとつかも知れない。
しかし本書は、前世療法を体験して癒された側から書かれたレポートとして貴重だ。もっとも構成は、前世療法を施した精神科医の視点からの記述と前世療法を受けた側からの記述とが交互に並べられており、これはこれで面白い試みだと思った。
共著者の女性ジャーナリスト・キャロルは、自分が体験した14の前世を振り返っている。その中で圧巻なのは、古代ローマに生きたカドレシーと呼ばれる男としての人生だ。彼は、地位や権力がほしいばかりに、自分を使う主人の要求を受け入れ、去勢された上で望みもしない同性愛的な関係を強いられた。にもかかわらず、最後には主人に裏切られる。主人は、死んだら彼に財産を残すと約束していたのに、結局は自分の息子に譲ってしまったのだ。
地位や権力を得たいばかりに去勢に応じたにもかかわらず、カドレシーは望みをかなえられなかった。自分の人生に何も残っていないと感じた彼は、性的にも欲求不満になり、残された唯一の楽しみである、食べることに集中していった。彼は生来、血が止まらない体質だったにもかかわらず、暴飲暴食で命を削っていった。そんなに太らなければもっと長く生きられたのに。
こうしてカドレシーは、主人の息子ルキオに看取られながら死んでいく。父親のことは憎んでも憎みきれなかったが、息子ルキオのことは深く愛した。カドレシー は、ルキオとの交流のなかに愛の美しさを見出した。そして、愛は憎しみを超え、 愛がすべてを解決することを学んだ。そして「もっと愛する人々と長く一緒にいたいなら、自分の肉体をもっと大切にしなければならない」ことをも学んだ。
キャロルは語る、「死の直前、ルキオに対して感じた愛のぬくもりに、私は驚きました。私は彼を置いていきたくなかった――でも、あの愛を体験したことで、自分があの人生に入った目的を達成したことを、突如として、しかも余すところなく 理解することが出来ました‥‥‥だから、次に移るべき時が来たのがわかったのです」。
キャロルにとって、このセッションのインパクトは強烈だった。過去からのメッセージがついに彼女の重い腰をあげ、やっとダイエットに本気で取り組むことになった。これまで何度挑戦しても成功しなかったダイエットにやっと成功したのである。そして、彼女のほかの人生でも何度も繰り返されたテーマがこの人生でも繰り返されていることを知った。それは、人に弄ばれ利用されながら、自己主張できない、自分のために立ち上がれないという問題であった。自己主張というテーマは、 彼女が受けた前世療法のプロセス全体の中で解決されていったようだ。
エドワード・クラインは、精神科医として前世療法を行ってきた豊かな経験から 「私たちは前世で未解決のままにしてきた問題を今回の人生で解決するよう仕向けられているのだ」と信じるに至ったという。私自身はそこまで確信できないし、読後に若干の不満が残る。それはこれまでに読んだ前世療法関係の本全体に言える感想かもしれないが、この本で特に強く感じた。
不満は、一つ一つ人生がかなり手軽に追体験され、ごくかんたんに要所のいくつかが振り返られて終わり、次々と別の人生に移っていくことだ。もしかしたら治療的な効果としてはそれで充分なのかもしれない。しかし読む側には個々の人生の重みが充分に伝わってこない。ひとつの人生をあたかも長編小説のようにじっくりと 詳細に記述したレポートなら、その人生の具体的な有様とともに真実さが伝わり、信憑性が増すのではないか。逆に、無意識的な創作であるならどこかにぼろが出やすいということだが。過去に生きたと思われるひとつの人生を、すぐれた自伝のようにその心の成長の軌跡も含めて詳述するような前世療法体験記は出ないものだろうか。もしチャンスがあるなら自分がレポートしたいくらいだが。
『輪廻転生―驚くべき現代の神話』などのJ・L・ホイットン、『前世療法―米国 精神科医が体験した輪廻転生の神秘 』などのブライアン・L. ワイス、『生きる意味の探求・退行催眠が解明した人生の仕組み』のグレン・ ウィリストン、日本では『生きがいの催眠療法―光との対話が人生を変える』の奥山輝実(飯田史彦との共著) など、この分野での実践の蓄積、その報告もかなりの量になっている。それらの研究から何が言えて、何が言えないのか。いずれにせよ私自身は、こうしたテーマにつねに心をオープンにして接していきたいと思う。