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★臨死体験研究読本★
臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』は、精神世界を論じながらも、具体性があるため、説得力があり、読み手にも理解しやすいものに仕上がっています。しかも、一向にテンションのおちない確信に満ちた筆致の迫力は全編に渡っており、かつてない熱気に満ちた力作です。◆これまでの外国の研究などの器用な整理やまとめをする日本の学者は多いでしょうが、本書は、独自の考察と分析によって外国の評価の高い研究を批判し、それらに対する自らの主張を明確にする、きわめてオリジナリティーの高い作品です。
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『人類は「宗教」に勝てるか』
◆町田宗凰『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)』(NHKブックス)

興味深く、強く共感できる本であった。著者・町田宗鳳の本を読むのは初めてだが、今後彼の他の本も読みたい。この本で強烈に批判されるのは、自分以外の神や真理を赦さない排他的な宗教としての一神教だ。

「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。

世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。

本の前半では、宗教、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。

たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。
 
一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。

いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。

著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。

アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。

この本のどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。

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『ダンマの顕現』 
◆『ダンマの顕現―仏道に学ぶ』玉城康四郎 (大蔵出版)  

著者の仏道にかける並々ならぬ思いが伝わる。何かが直接に響いてくる。形なき「いのち」が、著者の全人格体に充溢し、大漠流となって吹き抜けるという。その「いのち」のほんのひとかけが、私にも働きかけて来ているような感覚にとらわれる。 著者に顕現した「いのち」、それへと向かい行く著者の姿勢のすべてが、それに触れる私のたましいをなにがしか浄化してくれるような気がする。  

「ダンマというのはダンマとしか言いようのない、実は言葉では著すことの出来ない、形のない「いのち」そのものです。今日の言葉で言うと、宇宙を貫いている「いのち」そのものです。私も今生きておりますら、命に基づいて生きている。その私の今生きている命そのものに、宇宙を貫いているいのちが通じてくる。だから当然フーッと開かれていく。‥‥その形のない「いのち」そのものが、熱心に禅定に入っている私自身にあらわになる。これが解脱の瞑想です。」  

こんなにも高齢になるまで、没する直前まで、かくも真摯に仏道を求めた人を知り得ただけでも幸せであった。 「男一匹、生涯をかけた仏道は、ついにこの世では成就しないのであろうか、私はいくたび、絶望の淵に突き落とされたことであろう」とまえがきで語る。その仏道にかける情熱がひしひしと伝わり、心を動かされた。 座禅へ取り組む姿勢だけでなく、学問的な研究の情熱にも刺激された。  仏道を、こんなにも真摯に求め、しかも学問的な研究でも大きな成果を残したとは。本の最後の論文を読むと、道元の研究と、道元からの学びの姿勢が一体化しているのが良くわかる。

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生けるブッダ、生けるキリスト
評価:
ティクナットハン
春秋社
(1996-11)
◆『生けるブッダ、生けるキリスト

ヴェトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンは、ヴェトナム戦争中に事務所に手榴 弾を投げこまれなどしながら、反戦と和平のために奔走、アメリカで行った率直な 和平提案を理由にヴェトナムへの帰国を拒否されて亡命した。南フランスに仏教者 の共同体を開設し、「行動する仏教(エンゲイジド・ブディズム)」を提唱して活 躍する。  

本書は、おもわず夢中になって読み進み知的な興奮を覚えるという種類の本ではない。しかし、翻訳の文章であっても、その平易な言葉から澄んだ慈しみと力に満 ちた魂の響きが伝わってきて、読みながらかなり影響を受けた。  

なによりもまずキリスト教と対話する姿勢が印象的だ。キリスト教の宣教師たち がヴェトナムの植民地化に加担し、仏教徒にいかに横暴な態度をとったか、その生々しい体験を超えて、なおかつキリスト教のもっとも真実なものに深く共感する姿。キリスト教との対話を踏まえて、以下のように語る。

「対話とは一方の側が自己拡張して、相手方を自分たちが主張する『自我』にとりこんでゆくという意味での、一方による他方の吸収同化手段ではありません。対 話には自他の区別を超えた『無我』という視点が必要です。相手が基盤としている伝統が持っているよいもの、美しいもの、そして味わい深いものに心を開いて、それを自分が変わってゆく力としてゆかねばなりません。 ‥‥たとえば、もしも両親や家族、社会、あるいは自分の宗派と教会とのあいだに争いが起こったときには、おそらく自分の心のなかに波風がたっているはずです。 したがって、最も大切な平和の仕事は、まず自分に戻って、自分の心のなかで起こ っているさまざまな現象、すなわち感受作用、認識・判断作用などの心の状態をじ っと見つめてみることです。自分の内部を深く見つめる瞑想の練習が大切なのはこのためです。」  

おそろしく気の長い話かだが、これまでの人類の歴史を見るかぎり、そして現代 の世界を見るかぎり、「自分の内部を深く見つめる瞑想」は計り知れず大切なのだ と思う。瞑想によってもたらされる「うちなる平和」こそが「行動する仏教」を支 えている。  

また、日常生活のなかでの気づきの瞑想が大切にされているにも強い共感を覚える。ヴェトナム戦争のさなかに僧院にこもって周囲の苦しみを回避するのではなく、 空襲にあえぐ人々の苦しみを少しでも軽減しようと、ともに働きながら、気づきの瞑想を維持していく姿。  

「‥‥瞑想的雰囲気のなかで日常の仕事をこなしてゆく方法があるでしょうか。 答えはイエスです。気づきの料理、気づきの片づけ、気づきの掃除、気づきの洗濯 の練習です。気づきをもって日々の仕事に関わるとき、私たちは究極の実在に触れるのです。」  
仏教の瞑想経典中もっとも基本的な『サティパッターナ・スッタ(四念処経、四 念住経)』(パーリ語経典)の中に、どのような状況下でも、どんな仕事をしてい ても一日中気づき(サティ)の練習をせよと書かれているという。座禅時だけでな く、食器を洗っていても水を運ぶときも気づきの練習をする。この教えに基づいて ヴェトナム戦争中、修行を捨てずに「行動する仏教」の改革運動を推進していった という。

つまり彼は禅僧でありながらヴィパッサナー瞑想をも重視している。『四念処経』のコメンタリー『TRANSFORMATION&HEALING』(Parallax Press)という著作もある。

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一神教vs多神教
評価:
岸田 秀,三浦 雅士
新書館
(2002-08)
◆『一神教vs多神教

この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。 ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これをユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。

もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出すことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にでてくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。(かつての小論は、以下を参照のこと→真の「自己」の幸福論

しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをともなうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。  

一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だったために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。

一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。

ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。

岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服されたヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。

岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気であるという。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるということである。だとす れば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいという。

私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 このあたりの批判は、先にあげた拙論のほうでじっくりやっている。

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