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★臨死体験研究読本★
臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』は、精神世界を論じながらも、具体性があるため、説得力があり、読み手にも理解しやすいものに仕上がっています。しかも、一向にテンションのおちない確信に満ちた筆致の迫力は全編に渡っており、かつてない熱気に満ちた力作です。◆これまでの外国の研究などの器用な整理やまとめをする日本の学者は多いでしょうが、本書は、独自の考察と分析によって外国の評価の高い研究を批判し、それらに対する自らの主張を明確にする、きわめてオリジナリティーの高い作品です。
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アメリカの正義病・イスラムの原理病―一神教の病理を読み解く
◆岸田秀+小滝透『アメリカの正義病・イスラムの原理病―一神教の病理を読み解く 』(春秋社)

2001年9月11日の同時多発テロ事件のあとに行われた対談である。発行は2002年3月。小滝透は、イスラム世界やイスラム教の精通した評論家だという。精神分析を国家やその歴史、国家間の闘争に応用する岸田の考察については、すでにあちこちで読んでいるが、この本は、イスラム世界にそれを応用して興味深い。

小滝透は、サウジアラビアに留学し、イスラム教徒として生活した経験ももち、イスラム教の世界を内側から経験している。イスラム世界の歴史や現況については、西欧世界に比べるとどうしても知識や情報が少なくなる。私もそうなのだが、小滝の豊富な体験と知識は、いきいきとイスラム世界を描き出し、始めて知る知識も多く、イスラム世界の一面について理解を深めることができた。そのためだけでも、この対談は充分に読む価値があるだろう。小滝は、イスラム世界のトラウマを十字軍に見て、その後の歴史の動きを説明する。そのときもちろん基本的には岸田理論が適用される。

イスラム社会が、私たちが想像するよりもはるかにイスラム教に強く拘束されて、ある意味で柔軟性を失っていることを小滝の話から強く感じた。

たとえば、近代社会では「思想信条の自由」があるが、イスラム法ではない。たとえば棄教が証明されると、イスラム法では背教規定が適用されて死刑になるという。小滝自身が、サウジアラビア留学時にイスラム教徒になったが、今は違う。『悪魔の詩』の翻訳者が、筑波大学で何者かに殺されたが、そのあと小滝に何者から電話があり、「ユー・ウィル・ビー・ネクスト」と脅迫されたという。『悪魔の詩』のスウェーデンとイタリアの翻訳者も次々殺された。しかも一部の過激分子の犯行ではなく、ホメーニーの宗教布告が基になっているらしい。

イスラム社会は、近代化そのものがきわめて難しいという。宗教的戒律を社会規範化して成り立っている文明だから、社会規範を改変して西欧化することが難しい。神の与えたものとして神聖視される社会規範は、かんたんには変えられない。女子教育や女子労働にも一般に否定的で、その結果、一定以上の知的水準をもた労働力を女性から調達することが困難になる。つまり人口の半分を動員できない。女性や食べ物に対する禁忌は、彼らの文化の根幹にかかわる問題であり、あまりにタブーが多いことが近代化の妨げになるようだ。

宗教的戒律が社会規範として文化の根幹に食い込んでおり、それらを改変して社会を変革していくことが、きわめて困難な宗教−社会的な構造があるようだ。宗教的な拘束によって社会の土台が、しっかりと固定されているような印象を受けた。だとすれば、イスラム社会と西欧社会の対立の構図もまた、なかなか変わらないということか。
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「ケータイ・ネット人間」の精神分析―少年も大人も引きこもりの時代
◆『 「ケータイ・ネット人間」の精神分析 (朝日文庫)

言葉は平易だが、分析は鋭く、現代日本人の顕著な心理的傾向を的確に分析する重要な本。ネットが人間の精神のあり方にどのような影響を与えているかという問にみごとに答えてくれる。 9年前の出版だが、現代日本の社会と人間関係を分析するための有効な手段としてますます価値が高まっている、と感じる。

一言でいうと、愛も憎しみもある1対1の人間関係(これを「2.0」の関係と呼ぶ)が希薄化し、逆に「1.5」のかかわりが現代人の心に深く浸透するようになった。「1.5」のかかわりとは周りから見ると物体にすぎない相手に、あたかも本物のお相手のような思いを託して、それにかかわるあり方だという。
 特に、テレビ、コンピュータ、「ファミコン」の出現は、これらのメディアによる対象との新しい「1.5」のかかわりによる、現代人固有の心的世界を作り出すことになった。自然と身体の直接のかかわりの代わりに、押しボタン一つでの仮想現実とのかかわりが、あたかも現実とのかかわりそのものであるかのような、倒錯した心の暮らしをする時間帯がどんどんふえているというのだ。

「戦後の数十年間の犯罪・非行統計をきちんと調べてみると、意外なことに他の先進諸国の傾向とは異なり、最近の青少年は昔に比べはるかにおとなしくなっている」「殺人率の低下だけでなく、全体として青少年は決して凶悪化しているわけではない」、そしてごく例外的に起こる重大事件について不必要なものまで微細に報道し、解釈しようとするメディアのあり方が問題だと広田照幸は指摘する。

これに対し小此木は、たしかにメディアがクローズアップするのは例外的事件ではあるが、やはりそこに現代人の心を先駆的に表現する面があると反論する。 一連の少年犯罪は、いずれも、縁もゆかりもない隣人を、しかも、動機不明のまま、犯人のきわめて主観的な思い込みで殺害してしまうという点に奇矯さがあり、衝撃性がある。しかもその主観的な思いこみの背後には、「引き込もり」がある場合が多いという。

彼らは、アニメやインターネットの世界で自分の衝動をアニメ化して暮らしていたのだが、ネットと現実との使い分けをやめて、ネットからの引きこもりから脱出するとき、仮想現実の世界だけに許されていたはずの衝動を、そのまま外の現実の世界で発揮してしまった。一連の少年事件の背後に、そのような心理的特質がある。 そして、少年たちの事件が、大人に衝撃を与えるのは、実は大人たちの心の闇を露呈させるからだ。

近年の日本人は、多かれ少なかれ引きこもり的な人間関係をいごこちよく感じるようになっている。愛も憎しみもある2.0のかかわりではなく、1.5のかかわりにいごごちのよさを感じるようになり、人間関係全体が希薄化している。  

小此木は、われわれが自然の環境から人工的な環境に引きこもって暮らし、さらに1.5のかかわりを基礎にして、テレビ、ゲーム、携帯、インターネットなどによるヴァーチャルな現実に引きこもる現実が生まれたという。 また、そんな引きこもりと平行して、人と情緒的に深くかかわらない、ある意味での冷たさとか、やさしさとか、おとなしさといわれるような引きこもりが最近の一般的な傾向になっている。激しい自己主張をしあって衝突したり、互いに傷つけあったりする生々しい争いを避けて、みんな表面的にやさしく、おとなしく暮らす。現代の若者の特徴とされる、こんなやさしさは、現代人一般に共通する引きこもりの一種である。

「やさしさは同時に、それ以上深いかかわりを避ける方法になっている。時にはやさくしないで、喧嘩をしたり、叱ったりするほうが、本人のためだという場合もあるのに、それをしない冷たいやさしさである」というのだ。 攻撃性、自己主張、激しい感情は消失したように見えるが、それだけに非常に未熟で訓練されていない攻撃性がやさしさを突き破って、激しい破壊性となってあらわれることがある。しばしばそれは、マスコミを騒がす種々の破壊的な行動の形をとる。

現代人は、主張し合い、傷つけあう生々しいかかわりを避け、多かれ少なかれ、冷たいやさしさへと引きこもり、ある種の破壊性を抑圧する傾向にある。だからこそ突然に破壊的な衝動を爆発させる、やさしき少年の事件に衝撃を受る。大人たちは、これらの事件により自分自身の内なる闇に直面させられるのだ、冷たいやさしさの奥の破壊的な衝動に。

また、 中・高校生だけでなく、大学生、出社拒否のサラリーマン、どの年代の引きこもりの人々にも共通するのは、肥大化した誇大自己=全能感の持ち主であるということ。しかも、その巨大な自己像にかなう現実の自分を社会の中に見出すことに失敗している。一見ひ弱で、小心、傷つきやすく、内気な人物に見えるが、実はその心の中に「自分は特別だ」という巨大な自己像が潜んでいる。

小此木は、現代日本の社会を多かれ少なかれ自己愛人間の社会だという。衣食住がみたされ、食欲も性欲もみたされているような社会、それでいてお国のためとか革命のためとかいう大義名分も理想も効力を失った社会では、私たちの心に唯一活力を与えるのは自己愛の満足の追求である。そして一方的な自己愛の追求は1.5的なかかわりと呼ばれるのと同じ心性が潜んでいる。( しかも全能感や1.5的なかかわりは、テレビゲームやパソコン、インターネットとのかかわりの中で浸ることのできるものである。その意味で彼らは時代のもっとも深い病を反映している。)

現代日本の特徴である自己愛人間社会が、異常な全能感や自己愛の満足しか身につけていない少年や若者を生み出している。彼ら少年、若者は私たち大人の自己愛人間の分身である。われわれの内なる自己愛人間の反映である。 

JUGEMテーマ:精神世界の本
心理学全般15:12comments(0)trackbacks(0)
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対話 起源論
評価:
岸田 秀
新書館
(1998-07)
岸田「対話・起源論」1◆『対話・起源論』岸田秀(新書館、1998年)
私は、岸田秀の本のなかの、とくに社会や歴史についての発言に強い関心をもっている。もともと精神分析や深層心理学が好きな上に、彼の「唯幻論」が、仏教の思想とかなり通じるものがあるからである。つまり、人間は本能が壊れて自然との直接的な関係をもてなくなったがゆえに幻想を介在させて世界に対応するほかなくなった。それが、「自己」、「言語」、「文化」の起源であるという。

人間が見る世界と自己が幻想に過ぎないとする点は、仏教が、凡夫の迷いの世界を迷妄であり、幻影であるとするのに通じる。ただ岸田は、その幻想から目覚める(つまり覚りを得る)ことの可能性を認めていないが。その点を除いては、彼の「唯幻論」にかなりの共感を抱いている。

この本は、「父の起源」「歴史の起源」「国家の起源」「近代の起源」「幻想の起源」について、それぞれの霊長類学者や歴史家との間で対話している。私はとくに「幻想の起源」(三浦雅士との対話)が非常に面白かった。唯幻論が出て20年以上を経て、学問の状況もかなり変化した。その変化を踏まえて唯幻論を再度検証しようという対話である。とくにチョムスキーの言語理論との比較検討が面白い。言語能力は人間に先天的なものであるとう理論と、本能が壊れたから言語を作ったという理論は、両立しうるのか、どうかという問題である。実際には、チョムスキーが言いたいのは、何語であれ、人間には言語を習得する能力があり、そこが類人猿とはちがうということである。だから、これは、社会言語学や岸田の理論の矛盾はしない。むしろ、言語が先か本能が壊れるのが先かという問題にからんだ議論の方が面白そうだ。 

岸田「対話・起源論」2◆本能の崩壊と言語の獲得
《まとめ》岸田は、人間の本能が壊れたのが先で、壊れたから必要に迫られて言語能力が開発されたと考えている。しかし、どうして本能が壊れたのかを説明するのは難しいと岸田自身がいう。チョムスキーは、新人(クロマニョン人)の段階で普遍文法が、突発的に獲得されたと思っていたようだ。しかし、それがどうしてかについては、かなり神秘的な理由も想定していたらしい。

丸山圭三郎は、脳が異常発達して言語が発生し、その結果、本能が壊れたとする。しかし、ではなぜ脳が異常発達したのか、という困難な問題はやはり残る。 

◆どちらが先とも言えない?
旧人(ネアンデルタール人)と新人との間には、言語能力に決定的な差があったとする説が多いらしい。とすれば、なぜクロマニョン人はそのように高い言語能力を持ったのか。本能の崩壊が先か、言語能力の獲得が先か。おそらくこれは、どちらが先とは結論づけられない問題だろう。

ただ、この問題の根底には、なぜ生命は進化するのかという進化論の問題が横たわっている。岸田のように本能が壊れたから必要に迫られてとするのは、何かしらダーウィン的な進化論をにおわせる議論のように思われる。なぜ脳は本能を壊すほどに異常発達したのか。もしかしたらそこに「突然変異」以上の何らかの意味があるのではないか。進化そものもを、ダーウィン的な見方から自由に見直すなら、全く別の説明の方法もあるだろう。

◆対話の面白さ
この本全体としては、父、国家、歴史、近代等についての「唯幻論」の大胆な仮説を、それぞれの専門家の意見と突き合わせて検証するという構成をとっており、すこぶる刺激的だ。その意味では、岸田が書いた本と同時に、それ以上にこのような対話本の方が、面白いかもしれない。今後も彼の対話本を読むのを楽しみにしている。


      
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ものぐさ社会論―岸田秀対談集 (岸田秀対談集)
評価:
岸田 秀
青土社
(2002-09)
◆『ものぐさ社会論―岸田秀対談集 (岸田秀対談集) 


岸田秀の本は、読むたびにかなりの刺激をうける。とくに歴史や社会を精神分析の方法で分析する議論には、読むたびに刺激される。したがって、対談集のなかでも、アメリカとの関係から日本人を語る『日本人にとっての「会社」と「アメリカ」』(対談者:田中滋)や、北朝鮮を大日本帝国の継承者として精神分析する『北朝鮮とは何か』(対談者:三浦雅士)が示唆に満ちていた。特に後者の分析は、北朝鮮をこれまでとは違った視点から一望させてもらった。

岸田は、人間が、自我というものを持っているかぎり、個人のアイデンティティが必要であり、アイデンティティには根拠が必要であるという。個人のアイデンティティは、つねに集団的なアイデンティティに支えられることを必要とする。そして、今のところ個人のアイデンティティの根拠としては、国家や民族に代わる適当なものがない。

私にとっても、個人のアイデンティティの基盤となる国家や民族と言う問題は、今後じっくり検討して行く必要のある重大な課題だと思っている。私自身の中に「日本人としての私」というアイデンティティから発する感情、劣等感や優越感が根深く存在している。そして自我からの開放、その過程としての心理的成長は、個人のアイデンティティの基盤としての、国家意識や民族意識から開放とも深く関係しているのだ。つまり、私自身の最大の関心事である心理的成長とその理論からしても、個人のアイデンティティとその根拠としての集団的アイデンティティとの関係は、無視できない大きな問いだ。

問題は、ここに現代の国家相互の軋轢や、戦争や、民族紛争などのもっとも深い根っこがあるらしいということだ。現在、世界にうずまく現実的な問題も、かなり大きく個人と集団のアイデンティティの問題にからんでいるのではないか。だからこそ、個人の心理の問題と国家相互の関係の問題が、たんなる比喩以上の類似性をもって語ることができるのだろう。それゆえ私にとっては、以前からの関心事である心理的成長という観点からも、国家や民族相互の対立という観点からも、このテーマに深い関心を寄せざるを得ない。

ヒトラーのナチス・ドイツについての優れた研究は、マルクス主義とフロイディズムの双方に影響を受けた人々のものが多いという。アドルノ、ホルクハイマー、フロム、マルクーゼらで、彼らは精神構造にまで踏み込んで、フロイド的な分析方法をとっている。つまり、フロイド的な方法は、社会心理の分析においてもきわめて有効なのである。その意味でもわれわれは、岸田秀の仕事をもっと評価して、それを深めるなり、実証的に基礎付けるなり、発展させるなりしていくことが必要と思われる。

私自身は、自我と国家、自我と民族という関係からも、岸田秀の分析を参考にして考えていきたい。自我の成立にとって国家や民族という集団アイデンティティは、どのような役割を果たすかという問題だ。こうした関心にからませながら、たとえば岸田の北朝鮮の分析も読んでいこう。

劣等感を感じる人間は、権威をほしがる。ユダヤ人は、エジプトなどで奴隷として差別されたがゆえに、一神教をつくり、その神に支えられた絶大な権威をもつ家父長制を作った。岸田によれば、大日本帝国も朝鮮民主主義人民共和国も、根深い劣等感から、家父長制的な超国家主義の体制を作り上げたのである。

もし岸田のいうように、個人のアイデンティティは、つねに集団的なアイデンティティに支えられることを必要とするなら、集団として体験した劣等感は、個人の劣等感に色濃く反映される。たとえば、アメリカにより強制的に開国を迫られたことの集団としての劣等感は、個々人の劣等感に反映され、私たち一人一人のなかに欧米コンプレックスが巣食うことになる。それを跳ね返すために個々人が、依拠すべき権威を欲し、その心理に乗じて超国家主義的な体制が出来上がる。大雑把にいって、そんな相互関係がはたらいているのだろう。

ここで、ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズの『神話の力』(早川書房、1992年)を参考にしならが唯幻論と精神世界というテーマを探ってみよう。 キャンベルは、神話学を「ひとつの偉大な物語」の研究だという。私たちはみな、 存在のひとつの基盤から生まれて、時間という場に現れている。時間という場は、超時間的な基盤の上で演じられる一種の影絵芝居だ。私たちは影の場で芝居を演じる。「ひとつの偉大な物語」とは、そのドラマにおいて自分の位置を見出す努力のことだ。

ここでいう「存在のひとつの基盤」は、私たちのいう「精神世界」に重なるものと考えてよいだろう。精神世界は、私たちの存在の「超時間的な基盤」なのである。私たちが「現実」と呼び、私たちの人生と理解するものは、「超時間的な基盤の上で演じられる一種の影絵芝居」、すなわち幻影なのである。岸田は、幻のみがある(=「唯幻論」)と考えるだろうが、「幻」という概念自体が、幻でないものを想定している。私たちが「精神世界」と呼ぶ現象のなかには、次元こそ様々であろうが、所詮は「幻」の一種にすぎないものも多いだろ言う。

しかし、キャンベルの次のような主張をどう捉えるべきだろうか。

誰でも、自分でそう思い込んでいる〈自分〉以上の存在であり、自分についての観念には含まれない次元と自己実現の可能性がある。生は、いま自分で見ているより はるかに深く、はるかに広い。いま生きている生は、それに深さを与えているもののうち、ほんのわずかな影に過ぎない。わたしたちは、その深みのおかげで生きられるのだ。あらゆる宗教は、その深みについて語っている。神話もまたその深みに触れている。この世界という偉大な交響曲に対して、それと調和し、肉体のハーモニーを世界のハーモニーに同調させるためにこそ、神話が生まれたのだ。

私たちが見ているよりもはるかに深くて広い、生の基盤。それに比べれば、私たちの生は影にすぎない。私たちのいう「精神世界」は、その深みに関係している。宗教もその深みに触れている。幻とは、その深みに対して「幻」なのだ。だから、「唯」幻論と言ってしまっては、その深みへの視点を失うことになる。そこに岸田「唯幻論」の限界があるであろう。

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唯幻論物語 (文春新書)
評価:
岸田 秀
文藝春秋
(2005-08-19)
◆『唯幻論物語 (文春新書)

岸田秀が、幼児期からの母親との関係が原因で神経症になったことは、すでにあちこちで本人が書いており、岸田の読者にはよく知られた事実だ。しかし、こうして書き下ろしの本で詳しく読むと、そこから癒されようとして彼がたどった道に、学ぶべきものが多くあることを改めて感じる。

精神分析は、ある観念からその真の根拠を切り離し、真の根拠を無意識へと抑圧すると、意識に残ったその観念は強迫的になるという。ある観念を打破するには、その根拠を現実的または論理的に崩せばよいのだが、真の根拠は無意識に抑圧されているので、意識の判断では手が届かず、したがって崩しようがない。したがってその観念は、頑固で不合理で動かしがたく思え、「強迫」観念として立ち現れるということだ。

だから意識のレベルでの自己観察では、無意識に抑圧されたところまで深まる自己分析は難しい。そこで岸田は、日常生活における他者との関係に助けを借りたという。たとえば、特に、激しいショックを受けたとか、猛烈に癪に障った非難は、自分が否定したがっている無意識的コンプレックスの的をずばりと射ていることが多く、貴重な資料になったという。

また、これはよく言われることだが、とくに理由もないのに、ある人が嫌いだとか虫唾が走るという場合は、自分が否認し抑圧している自分のある面をその人に投影している場合が多い。嫌なやつには自分が映っている。

さらに、ある物語に非常に強く心を動かされたり、かき見出されたりした場合、その物語は自分の何かのコンプレックスの傷口に触れていると考えられる。

このように自分の無意識は他者の眼、他者の行動、他者の鏡、他者の物語を介して見えてくる。他者を足場にして初めて、堂々巡りをする自己中心的な自己観察がいくらか客観的な自己分析となるという。岸田自身が、こうした他者を契機とした自己観察によってよって、抑圧を自覚していったのである。

これはこれで参考になるが、もし岸田と話す機会があったなら、ヴィパッサナー瞑想はサティとラベリングという方法によって意識のおよばない抑圧に気づいていく方法だが、これについてどう思うかと訊いてみたいと思った。

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構造としての神―超越的社会学入門
評価:
ケン ウィルバー
青土社
(1990-08-10)
構造としての神―超越的社会学入門

この本は、トランスパーソナル心理学(超個人心理学)の成果を宗教社会学の分野に注入して、宗教社会学の視野を拡大することを目的とする。それは人類の歴史と社会を、超個人的な次元へと向かう一種の目的論的な視点からとらえ直し新たな意味付けをする壮大な試みでもある。

ここでは第2章の内容にのみ簡単にふれる。

第2章「構造的組織体の階層秩序」では、ピアジェなどの正統的発達心理学の階層秩序に超個人的な次元を加えている。発達心理学は、古層レベル、呪術的レベル(アニミズム、ピアジェの前操作的思考)、神話的レベル(具体操作的思考)、合理的レベル(形式操作的思考)という階層秩序を想定する。また、このような発達心理学的・個体発生的な階層秩序は、原始旧石器時代の呪術、古典的な宗教的神話、現代の合理科学という、歴史的(系統発生的)な階層に、それぞれ深層構造において対応すると思われる。  この対応を踏まえてウィルバーの次の印象深い言葉を読んでほしい。

「現在までの進化のコースをみるがよい。アメーバから人類までの道のりを! それならば、このアメーバから人間への進化率を未来の進化に適用したらどうであろうか。つまりアメーバが人間に対する関係は、人間がXに対する関係に等しいのである。Xとは何か? この「X」が、本当にオメガ点、ガイスト、超越心(スーパーマインド)、霊であるかもしれないと言ったら嘲笑されるだろうか。下意識が自己意識に対するのは、自己意識が超意識に対する関係に等しいのではないか。前個人的なそれは個人的なそれに道をゆずり、個人的なそれは超個人的なそれに道をゆずるのではないであろうか。あのブラフマンはたんに進化の根拠であるだけではなく、その目標でもあるのではないであろうか。」

つまりウィルバーは、合理的思考よりさらに高いレベルがあることを示す。それは、発達心理学的に個人が、さらに高度な意識レベルに至ることを意味するが、同時に、人間の文化全体が、さらに高度なレベルへと進化する可能性をも示唆する。  

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心理学全般17:43comments(0)trackbacks(0)
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意識のスペクトル 1・2
評価:
K.ウィルバー
春秋社
(1985-05)
意識のスペクトル 1 (1)

ウィルバーの『意識のスペクトル』の第1巻は、意識のスペクトル論の全体像の骨格を論じ、それにまつわる問題点を指摘しているのに対し、第2巻は、影のレベルから「心」のレベルへと向かってアイデンティティーを広げる、「治癒と進化の道を論じた方法論」という形をとるという。

ウィルバーの6段階の意識のスペクトルがどのようなものか、簡単にまとめておく。
  峅礁漫扮董砲離譽戰襦廖深分だと信じられた部分〈仮面=ペルソナ〉が本来自分のものである衝動や欲求や思考〈影=シャドー〉を抑圧している。
 ◆崋我のレベル」/影を統合しているが、身体とは分離している。からだは自分の所有物や道具であって、自分自身ではないと感じられ、そのアイデンティティは、身体を統合せず、排除している。
 「生物社会的帯域」/自我のレベルから実存のレベルへと統合が進む途中にあり、社会的なプログラム、つまり言語、習慣、教育、文化の習得などが含まれる帯域。
 ぁ崋詑犬離譽戰襦廖織▲ぅ妊鵐謄ティが、自我を超えて身体にまで広がっている。統合された心身=有機体が「自己」と感じられている。しかし、この心身一如の有機体は、環境とは分離している。
 ァ崢狂弔梁唹茵廖深詑犬離譽戰襪函⊃瓦噺討个譴襪泙辰燭対立のない領域との間にあり、トランスパーソナルな帯域、超個の帯域と呼ばれる。そこでは環境との分裂はあってもその境界はあいまいで、実際にはESPや共時性、超常現象さえも起こりかねない帯域。
 Α嵜瓦離譽戰襦廖真祐屬亘寨茵⊃粥複唯蕋遑筺砲噺討个譴詒鷯錣防広く、いかなる分離分裂も二元対立もない状態、世界ないし宇宙と一体化している状態を深層にもっている。東西の神秘思想が、たとえばブラフマン、永遠、無限、空、無、宇宙意識など、さまざまな言葉で表現した、人間と全者が一つとなった究極のレベル。  意識のスペクトルは、電磁波のスペクトルと同じように、ある一貫した連続性をもって展開する。
 

第2巻は「治癒と進化の道を論じた方法論」という形をとるせいか、読んでいて今自分自身がどのような状態にいるのかとか、ウィルバーのいうセラピー論にしたがって、自分の問題に対してみたいとか、自分への問いかけをしながら読めるのが面白い。

たとえば第7章「影の統合」では、フロイトからパールズまでの理論を踏まえてわかりやすい事例を引きながら、自我と影の関係を論じ、影を再び自分のものにする実践的方法を探求している。  

「われわれの中の否定的性向(影の一面)は、それらに目をつむろうとしても、しっかりわれわれのものとしてとどまり、恐怖、抑圧、不安といった神経症的な症候となってわれわれを悩ませるのである。意識から切り離された否定的性向は、自然に備わった均衡を失い、脅威的な様相をされけ出す。悪というものは、それと友達になることによってのみおとなしくさせることができるのであって、疎外すると、火に油をそそぐようなものである。統合されると、悪は穏やかなものとなり、投影されると非常に悪意に満ちたものになる。」

これ考え方自体は、目新しい考え方ではないが、否定的な感情を抑圧するのではなく、意識的・自覚的に味わい尽くすというのは、いつでもひとりでも出来ること。ある人物への否定的な感情を、ひとりで徹底的に表現しきって味わってみると、それが自分に統合されていく。 シンプルだが、その通りだと思う。実は、ある人物にこれをやったら、確かにその通りだと実感できた。

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カール・ロジャーズ入門―自分が“自分”になるということ
評価:
諸富 祥彦
コスモスライブラリー
(1997-10)
カール・ロジャーズ入門―自分が“自分”になるということ

現代日本の心理療法の世界にカール・ロジャーズが与えた影響は大きい。来談者 中心療法というその方法だけでなく、その人間観、人間関係論、教育論など、多く の面で彼の思想から学ぶべきことは、なお多い。この本は、ロジャーズの生き生き とした人間的な側面を伝えるという意味でも、かっこうの入門書だ。

ロジャーズの著作としては、岩崎学術出版社から『ロージャズ全集』全23巻が 出版されたが、高価ですでに入手しにくい。インターネットで検索すると、ロジャ ーズが書いたもので手に入りやすいのは晩年の主著『人間尊重の心理学―わが人生 と思想を語る』 (1984、創元社)くらいか。その意味でも諸富氏の入門書は貴重だ。

私自身は、サイコセラピーを専門にするものではないが、ロジャーズから実に大 きな影響を受けてきた。またロジャーズに影響を受けたことが、その後仏教や精神 世界に関心を広げ、それらを学んでいく上での、重要な踏み台となったと感じる。 ロジャーズを学び、またカウンセリングを体験的に学習することが、「自分が"自分" になる」過程であった。まさに自分自身の中の成長しようとする《いのちの働き》 が、ロジャーズに共鳴していた。

諸富氏のこの本は、私もその虜となったロジャーズの魅力を充分に伝え、さらに ロジャーズ晩年のスピリチュアルな次元への目覚め、トランスパーソナリストとし てのロジャーズにも触れており、学ぶところが多い。

「自分が"自分"になる」ということの真意は、ロジャーズの次の言葉に端的に示 されている。 「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができる時、そ して自分自身になることができる時、私はよりよく生きることができるようす。‥ ‥‥言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができる 時、私は、よりよく生きることができるのです」

こうして、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れた時、どのよう な変化が生じるのか。これもロジャーズ自身によって次のように表現されている。

1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになって いく
5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
6)他の人をもっと受け入れるようになっていく  

こういうあり方自体が、きわめてスピリチュアルな方向を指し示している。しか もロジャーズは、来談者中心のカウンセリングでの、クライエントの変化そのもの から、こうしたあり方を学んでいったのだ。

諸富氏によるとヨーロッパ諸国では後期ロジャーズの影響が比較的強く、ここ数 年とくに、スピリチャリティーの観点から、ロジャーズの思想と方法を再発見しよ うとする動向が高まっているという。

そうした動向の中心人物が、英国のブライアン・ソーン教授だという。彼はいう、 「セラピストが、宇宙で働いている本質的に肯定的な力を信じる能力と信念体系を 持つことが、クライエントの癒しに深い貢献をもたらします。」 ロジャーズ自身 が「治療的関係について、その関係はそれ自体を超えて、より大きな何ものかの一 部になる」と述べているから、こうした展開があって不思議ではない。

ロジャーズの基本的な仮説のひとつに「実現傾向」概念がある。あらゆる生命体 は、自らの可能性を実現していうようにできている。この世におけるすべての《い のち》あるものは、本来、自らに与えられた《いのちの働き》を発揮して、よりよ く、より強くいきるように定められている。ロジャーズは晩年に、この《いのちの 働き》が、宇宙における万物に与えられていると考えるようになった。

こうした思想は、日本人の感性にきわめて自然に受け入れられやすい。だからこ そ、ロジャーズは日本で何の抵抗もなく受容され吸収されてきたのだろう。しかし、 であるとすれば逆に彼にただ感性で共感するだけでなく、その理論としっかりと向 き合い対話することが必要だと、私は感じる。それが、私たちの思考の暗黙の前提 となっている何ものかに、しっかりとした理論的な表現を与える作業につながって いくだろう。

ロジャーズの魅力を、たんにカウンセリングやセラピーの世界だけに閉じ込めて おくのは、あまりに惜しい。

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自我と無我―「個と集団」の成熟した関係 (PHP新書)
評価:
岡野 守也
PHP研究所
自我と無我―「個と集団」の成熟した関係 (PHP新書)

私自身がトランスパーソナル心理学にも唯識仏教にも関心が深いので、この二分野を基盤に発言する岡野氏の著作はほとんど読んできた。が、この本はとくに興味深い。

まず戦中の大多数の仏教者が積極的に戦争協力の発言をし、「無我とは滅私奉公である」「無我とは天皇陛下のために死ぬことである」と説いていたという。禅僧も含め、戦前の仏教指導者たちは「自我を滅ぼして国のために尽くすことが無我だ」という混同に陥っていた。

ほとんどの仏教者がそうだったという事実に驚くと同時に、今はその過ちを認識できる歴史的状況になったが、「私があの時代に仏教界の責任ある地位にいたら、本気で同じことを思い、発言していたかも知れない」という洞察にも、ある種の感動を覚えた。

自我と無我をめぐる戦前の(そして現代にまで至る)思想的な混乱をトランスパーソナル心理学と唯識仏教の視点から整理し、批判するときに開ける展望の新鮮さ。

この本の中の印象に残った話に以下のようなものがある。戦時中、中国・満州で説法し、兵隊に「国や天皇陛下のために死ぬのが仏教精神だ、思い残すことなく死ね」と説いて回った禅僧が、戦後も宗派の管長として大きな仕事をしていたが、反省して戦後だいぶたってから南方に遺骨拾いに行った。「あの状況下でつい死ねと云ってしまったが、せめて償いにお骨を拾ってお弔いをする」というのだ。

岡野は、この禅僧に心情的な反省はあっても、どうして戦争協力に至ったかの思想的な反省はないと指摘する。 仏教的な「無我」と「滅私奉公」を安易に混同してしまったところに、戦前・戦中の仏教や禅宗の、思想的未成熟があるのではないかと云うのだ。

この話を読んで最初に私が思ったのは、禅宗では覚醒、純粋経験など体験的なものが重視されるが、時代状況や歴史のそれぞれの局面で間違いを犯さないためにも、知的・思想的な探求や体験の位置付けが本当に大切なのだなということ。

いくら体験が大切だと云っても、知的な探求を怠ってはならないこと。知的な探求も同じように大切だということを肝に銘じなければならない。 と、同時に、本当に覚った人が戦争協力などするのかという疑いもいまだに残っている。 本当に覚った人が、国家エゴがぶつかり合い、それに駆り出されて無数の人々が殺し合い死んでいく戦争を是認することなどありえるのか、それは本当に知的・思想的探求の不十分さだけによるのか。

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サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ
評価:
下條 信輔
中央公論社
サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ

1520年、世界周航をめざすマゼランとその一行が、南米最南端のフエゴ島に 到達 したときのこと。マゼラン一行は上陸のために、自分たちの大型船四隻を島 の湾内 一時停泊させた。何世紀もカヌーだけで生活してきた島民たちは驚きの目で 上陸してきた彼らを見た。  

しかし、マゼラン一行がどのようにしてやって来たのか、島民たちはまったくわ からなかった。なぜなら、フエゴ島の人々の目には湾に錨をおろしている大型のス ペイン帆船の船団が映らなかったからだ。島民の目には、大型船団に視界を遮られ ることなく、いつもと同じように、湾の向こうにのびる水平線が見えていた。 これはその後、何度目かのフエゴ島再訪の際、島民たちがマゼラン一行に語ったことか らわかったという。彼らの頭のなかの枠組に大型帆船のイメージがなかったため、 目には映っていても、その映像を脳が拒否し、見れども見えなかったのである。 (濱野恵一著 『インナー・ブレイン』)

この話は、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の中の小論(「覚醒・至高体験とは」) でも紹介した。『サブリミナル・マインド』には、こうしたエピソードを裏付ける ような実験例が載っている。 知覚心理学では、タブー語を瞬間呈示すると、無意識裡に抑制されて、主観的に は「見えない」という実験が報告されているのだ。タブー語とは、観察者本人にと って強い不快感や羞恥心をもたらすことば、たとえば性的なスラングとか、ユダヤ人にとってのハーケンクロイツなどである。無意識的な認知プロセスが働いてタブ ー的な語をあらかじめ選別し、知覚意識に昇るのを抑える「知覚的防衛」が働くら しい。フエゴ島の人々には、まさに同様の「知覚的防衛」が働いたのであろう。  

この本は、こうした様々な「潜在的な認知過程」を豊富なデータに基づいて論じ る。「潜在的な認知過程」というと精神分析学や深層心理学でいう「無意識」を連想するかも知れないが、この本で扱う「潜在的過程」は、それよりもはるかに広い射程をもち、行動・認知・神経科学的な過程を含む。それらの各分野において、フ ロイトの時代よりどれほど多様で豊富で説得力のあるデータが蓄積されているかが、 読み進むにつれていやというほど分かる本だ。  

人は自分で思っているほど自分の行動の動機を分かっていない。自覚がないまま に意志決定をし、自分の行動の本当の理由には気づかない。「認知過程の潜在性・ 自働性」がデータの上でますます強力に実証される。そうした事実は、確かに人間 の意志決定の自由と責任に関する社会の約束ごとさえ脅かす。

しかし、だからから こそ瞑想に関心をもつものは、瞑想的によって深まる「自己覚知」によって、そう した「潜在的認知過程」からどれほど解放されるのか、自ら実践的に問い続けるべ きだと思った。

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