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評価:
宮元 啓一
講談社
(2002-11)
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◆『
インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)』
この著者の本はすでに何冊か読んだ。『ブッダが考えたこと』や『ブッダ・伝統的釈迦像の虚構と真実』などである。いずれも、「常識的仏教観、釈迦像を撃ち破る内容」というか、従来の著名な仏教学者の説を覆すような発言が目立つ。かなり野心的な研究者であり、それなりに面白い。しかし、ブッダの目覚めとは、根本的な生存欲の滅を達成することであったが、そのための修行法は、「思考停止を目指す瞑想」ではなく「徹底的に思考する瞑想」だ主張する点など、納得できないところも多かった。
著者の専門はインド哲学であるが,その専門分野においての野心的な試みがこの本である。「正統的」インド哲学研究者たちは、インド哲学研究はインド思想史研究でなければならないとし、ひたすら調査、整理、陳列のみを心がける。著者はそれに飽きたらず、伝統的なインド哲学と対話しつつ自ら哲学しようとしたのがこの本である。
第三問「本当の『自己』とは何か?」、第四問「無我説は成り立つか?」など、私にとっても興味深いテーマが並んでいる。
◇第三問「本当の『自己』とは何か?」を例に挙げよう。まず、インド哲学における自己論の基礎を築いたヤージュニャヴァルキヤ(紀元前8〜7世紀)の説が紹介される。要点は、自己は、環境のなかにあるけれども、環境とは異なるものであり、環境をその環境たらしめているもの、環境をうちから照らし出すということだ。自己は、心の作用と心と身体と環境とのなかにあるけれども、それらとは異なり、それらを内から照らし出すものである。仏陀の五蘊(心身の五要素)非我説も、この説を正統に継承していおり、のちのインド哲学全般に見られる説である。
認識主体が認識対象になりえないというこの説は、不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラも受け継いでいる。「認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体」であり、「認識主体に属する認識しようとする欲求は、‥‥認識主体を対象とすることはありえない。なぜなら、認識主体を対象とするとすると、認識主体と、認識主体を認識しようとする欲求は、無限後退にするという論理的過失に陥るからである。」
すなわち、認識主体が認識されたとすれば、それはもはや認識対象であるから、それを認識する主体が別になければならない。結局、どこまでいっても、認識主体はつねに私たちの背後に廻り続け、けっして認識はされない。こうして自己は、私たちが知りうるものの中には、けっして入ってこない。そして私たちが知りうるものの総体が世界であるなら、自己は世界の外にあることになる。
釈迦時代の六派哲学の一つであるサーンキヤ哲学では、精神的原理であるプルシャ(純粋精神)と物質的原理であるプラクリチ(根本原質)の二つの実在的原理を想定する。精神原理である自己が、非精神原理(ここから流出したものが世界である)の外にあて、これをじっと見るものだという。サーンキヤ哲学は、ヤージュニャヴァルキヤの自己論の核心を正確に継承したのである。さらに8世紀にヴェーダンタ哲学を不二一元論で一新したシャンカラが、サーンキヤ哲学と唯識学派から大量にアイディアを取り込んで、その自己論を形成したのだという。
◇クオリア問題との関係で
以上の議論は、現代の脳科学におけるクオリア問題を考えるうえでも興味深いであろう。 クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指す。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念である(茂木健一郎)。
私は、クオリア問題の根底に、認識主体はけっして認識されないという「こころ」ももっとも原理的な特徴が横たわっていると思う。「私達の心が持つ様々な属性」の根底には、認識対象になりえないという認識主体の主体性という問題が厳然とあるのだ。この哲学的な問題をどう扱うかを抜きにしてクオリア問題を論じるのはナンセンスだ。それは、前提となるいちばん重要な問題を回避することである。認識対象にはけっしてなりえないという主体の主体性は、「脳を含めての物質の物理的記述」をいかに積み上げても説明することはできない。その原理的な不可能性を、理論的に正確に明らかにすることこそ、クオリア問題を論じるための前提であると思う。
また、対象になりえない主体の主体性という問題は、主体を主体として経験するものの唯一性という問題ともからむ。ここから輪廻する主体は何かという問題も視野に入ってくるような気がする。
◇「本当の『自己』とは何か」という章の最後で著者は、余談として「自己と心身をめぐる問題」に触れている。この「余談」が私にはかなり大きなテーマとなる。
西洋哲学の影響下の哲学者たちは、心身と自己との関係を問題とし、「私」とは、心か身体かと問い続ける。インドの自己論では、自己ははじめから心身と無関係である。自己は、世界の外にある。
たとえば、もし私が失神しているうちに記憶も身体もすっかり改造され、その上で意識を取り戻す。その時に「私は私だ」と発する「私」は、失神以前に発していた「私」が指していたものと同じなのか。
インド哲学の答えは明瞭である。それは同じであり、心身とはまったく無関係なものであるということだ。自己が世界の外にあるなら当然の結論だということか。つまり、自己は心身とはまったく無関係に常住にして不変だからなのか。
インド流に輪廻転生のたとえでも結論は同じである。もし私が死んで牛に生ま変わり、人間であったときの記憶を一切失ったとしても、認識主体としての自己は同じということになる。経験の中心、認識主体の主体性としては唯一で同一だからである。
◆蛭川立『彼岸の時間』第7章の議論をめぐって
かつて別のブログで『彼岸の時間』の中の議論に触れて輪廻の問題を扱ったことがある。そこでの議論を、インド哲学の自己論と重ね合わせて考えてみたい。
蛭川は、輪廻問題との関連で、死んでいった人と同じ記憶をもつコピー人間は、個人と同じ人物とみなせるかどうか、という問題を提出する。コピー人間の問題は、人口頭脳(AI)問題においても出現する。「かりに人間以上の記憶容量と処理速度をもつコンピュータができたとして、死の直前に、今までの人生の記憶などのすべての情報をその機械に移し替えることができたとしたら、そのコンピュタは「自分」だといえるのか」という問題だ。
技術的な問題がすべて解決したとして、「心の転移」によってつくられたコピーは、本当に「私」なのか。さらにもし、外見も中身もまったく同じで第三者に区別できないようなコピー人間が出来たとして、それは本当に「私」なのか。以下は、かつての私の議論。「私」とは、喜び悲しみ、苦しみや楽しみを感じている主体のことである。目の前にいるコピー人間が、外見も記憶も感じ方も私と同一だとしても、私と別個の主体として世界を体験している以上それは「私」ではない。
ここには、経験主体、認識主体の唯一性という問題が潜んでいるが、いずれにせよこの問題は、根源的な難しい問題である。ながながと書いたのは、このインド哲学の本が、クオリア問題も含めた、現代人の哲学的な難問と深くかかわっている問題提起をしているということである。