● 自己紹介
● 日記の分類−目次−


● 最近の日記
● 過去の日記【月別】
● 最近のコメント
● 最近のトラックバック
●リンク
関連リンク
★臨死体験研究読本★
臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』は、精神世界を論じながらも、具体性があるため、説得力があり、読み手にも理解しやすいものに仕上がっています。しかも、一向にテンションのおちない確信に満ちた筆致の迫力は全編に渡っており、かつてない熱気に満ちた力作です。◆これまでの外国の研究などの器用な整理やまとめをする日本の学者は多いでしょうが、本書は、独自の考察と分析によって外国の評価の高い研究を批判し、それらに対する自らの主張を明確にする、きわめてオリジナリティーの高い作品です。
● 携帯用CODE
qrcode
● その他

09
--
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--
| 1 / 2 pages | >>
tape
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
tape
禅と日本文化 (岩波新書)
評価:
鈴木 大拙
岩波書店
(1940-09)
◆『禅と日本文化 (岩波新書)

若き日に読んでかなり影響を受け、その後仏教への共感を深めていくきっかけになった一冊だ。鈴木大拙の著作の中で、世界でそして日本で最もよく読まれた本であろう。欧米に禅ブームを引き起こすのに一役も二役も買った。

禅は日本の文化にどんな影響を与えてきたか、そして禅とは何か。もともと欧米人のために英文で書かれた。そのためか随所に心理学的な用語が用いられている。かえってそれが、現代の日本人にも新鮮な禅との出会いを可能にする。私が「心理療法の考え方に通じる」と 「発見」したのも、そんな表現法によるところが多い。

私はその頃、ロジャーズを中心とした心理療法に関 心をもち初めており、禅の主張が心理療法の考え方に深く通ずることを「発見」し、たいへん感動した。それ以来、仏教と心理療法、人間性心理学、トランスパーソナル心理学等とは、一方の理解が他方の理解を深めるという形で、私にとっての主要な関心であり続けた。 その意味でも思い出深い本だ。 その後、特にトランスパーソナル心理学は、仏教に代表される東洋思想に深く影響されながら発展していったのである。その代表的な論客、ケン・ウィルバーは、禅からも深い影響を受け、深い座禅体験ももつ。

いかに心理学的な記述が多いか、一文だけ引いてみよう。 「偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を捨て去って、『無意識』の働きにまかせるとき成就せられる。神秘的な力が何人(なんぴと)の内にも隠されている。それを目ざましてその創造力を現すのが参禅の目的である。」こんな調子だ。

この本は、禅を、美術・武士・剣道・儒教・茶道・俳句など日本の伝統文化のあり方に即して具体的に語るので、その意味でも禅への入門書としてすぐれている。禅が、日本の伝統文化の一面にいかに深い影響を与えたかが、説得力をもって語られる。  

梅原猛は、この本が日本文化の禅的な一面だけを強調しすぎることを批判したが、にもかかわらず、この書が古典的な名著であることにかわりはない。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想14:48comments(0)trackbacks(0)
tape
沢木興道聞き書き―ある禅者の生涯 (講談社学術文庫 (639))
評価:
酒井 得元
講談社
(1984-01)
◆『沢木興道聞き書き―ある禅者の生涯 (講談社学術文庫 (639)) 

沢木興道(1880年6〜1965)は、昭和を代表する日本の曹洞宗の禅僧である。タイトルに「聞き書き」とあるように、沢木興道が話したことを内山興正が筆記し、さらにそれを酒井得元が編集して、書き改めたものであるという。いずれにせよ、こうした記録が残ることによって、金も名誉も求めず、ひたすら求道に徹し、仏道に一生を捧げた一禅者の生き様が、強烈な印象をもって私たちに働きかけてくる。読み始めると夢中になって止められなかった。

沢木興道とは、直接なんのつながりもないが、私が近年いちばん影響を受けたガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』の中で、さらにいちばん印象に残り、度々思い出すのは、次のような言葉である。

「精神的な探求とは実は死の探求であり、喪失の探求です。多くの人が、開悟を求めて精神的な探求を始めます。が、真の精神的覚醒とは何もかも失うことを通して得られるものなのです。」p317

ここで「何もかも失う」は、「何もかも手放す」と言い換えることもできるだろう。そしてほとんど「何もかも手放す」生き方を貫いたのが沢木興道だったのだ、と私は感じる。

沢木興道は語る、「仏法は餌食拾いの方法ではない。自分の本質が生きる生き方である。もしも食が授からなかったら食わずに死ぬという覚悟が、そのころからできかけた。」

その覚悟ができかけたというのは、18歳のころだという。そして彼は自分の半生を次のように振りかえる。

「食わされれば食う、食わされなければ食わぬ。衣類も着せられれば着るが、自分では着ぬ。一切生活を追い求めることはしないというのが、わしという人間の日常である。『ただ真っ直ぐむこうを向いて行くばかり』というのが、これまでのわしの一生であったが、今後もそうであろう。」

「ただ直ぐむこうを向いて行くばかり」というのは、もちろん仏道のことだ。この本を読むと、沢木興道という人はこういう生き方を実際に貫いた人だということがよく分かる。金や名誉や地位といった、「自己」拡大のための道具立てに一切執着せず、ただひたすら「真実」のためにのみ生きる。そこに本当の修行の姿があると、最近わたしも切実に思う。この本の魅力は、そういう生き方を貫いた男の真実さがまっすぐに伝わり、自分もそういう生き方をしたいと、思わせる力をもっていることだ。

結局人は、すべてを失って死んでいかなけれならない。しかし、すべてを失うから、一切が虚しくなるのではない。逆に、すべてを失うことが実感されればされるほど、本当に大切なものが見えてくるのだ。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想21:53comments(0)trackbacks(0)
tape
禅への鍵
評価:
ティク・ナット ハン
春秋社
(2001-02)
◆『禅への鍵

マインドフルネスの実践という面からも、その理論的な裏づけという面からも、たいへん分かりやすくエッセンスがまとめられている。禅を語りながら、日本の従来の禅書とは一味違う切り口で禅の真髄に迫っている。にもかかわらずここに語られているのはまぎれもない禅そのものだ。と同時に中観や唯識との関係が明確にされ、 さらに気づきの瞑想を実践するものにとっても大いに参考になる。

もともと欧米の 読者のために書かれた本なので、現代の若者にも読みやすいだろう。その理論的な 説明はきわめて明快だ。禅を中国から日本へという伝統的な視点から解きはなって、ヴェトナムでの発展、欧米での展開、気づきの瞑想として実践という広い視野から見直す新鮮さに溢れる本だ。

実践的には、ティク・ナット・ハンはマインドフルネスを強調する。マインドフル ネスは、サティの英訳である(漢訳は念)。仏教においては、マインドフルネス (気づき)があるかどうかが最も大事なことだ。

「いまここ、現在の瞬間に起きて いることにはっきりと気づいていること」。 「私たちが歩くときには、自分が歩いていることにはっきり気づいています。自分 たちが食べているときには、食べていることにはっきり気づいています。‥‥他の 人たちは、自分たちが歩いたり、食べたり、洗ったり、据わったりするとき、大抵 は、自分のしていることに気づいてはいません。」(釈尊と当時思想家の問答より)

何事も心を専一にして行う、はっきりと目覚めて生きる態度から深い気づき生まれ、 存在の真理があらわになる。日常の生活や仕事は、そういう気づきの課題を遂行する場である。目覚めるとは、統制のきかない思考という習慣病から、明晰で純粋なこころの状態に戻ることだ。 なぜマインドフルネスが大切なのかを

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想13:32comments(0)trackbacks(0)
tape
仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす (中公文庫)
評価:
ティク・ナット ハン
中央公論新社
(1999-11)
◆『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす (中公文庫)

著者は、瞑想の実践と非実践の間の垣根を取り除くような仕方で、瞑想を実践しようと提唱する。日常の中で、マーケットで、空港で実践する仏教、それが「行動 する仏教」だという。社会的政治的問題に仏教を役立たせたり、爆弾に抗議したりするだけではなく、まず仏教を日常生活のなかにもたらす。夕食のとき、遊びのとき、眠るときに応用することによって、仏教は日常生活において行動するものになるという。  

『ビーイング・ピース』という書名は、「行動する仏教」が内なる平和のもとにあること、自らが平和であることから始まることを示唆する。最も大切な平和の仕 事は、まず自分に戻って、自分の内部を深く見つめる瞑想なのである。しかもそれを日常生活と切り離さずに行うのだ。  

また、「どのような教条、理論、イデオロギーであっても、たとえそれが仏教のものであっても、それを盲目的に崇拝し、あるいは、それに縛られてはならない。 すべての思想体系は、人を導くための手段であって、絶対的真理ではない」という 教えは、自分のサイトの冒頭の言葉からも察していただけるように、まさに私自身 が貫き通したい姿勢である。  

言葉使いはあくまで平易で、しかも詩人でもある著者の印象的な詩がちりばめら れている。様々な意味で日本の伝統的な仏教に新しい息吹を吹き込んでくれる。この著者からさらに学んでいきたいと思う。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想10:04comments(0)trackbacks(0)
tape
インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)
評価:
宮元 啓一
講談社
(2002-11)
◆『インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)

この著者の本はすでに何冊か読んだ。『ブッダが考えたこと』や『ブッダ・伝統的釈迦像の虚構と真実』などである。いずれも、「常識的仏教観、釈迦像を撃ち破る内容」というか、従来の著名な仏教学者の説を覆すような発言が目立つ。かなり野心的な研究者であり、それなりに面白い。しかし、ブッダの目覚めとは、根本的な生存欲の滅を達成することであったが、そのための修行法は、「思考停止を目指す瞑想」ではなく「徹底的に思考する瞑想」だ主張する点など、納得できないところも多かった。

著者の専門はインド哲学であるが,その専門分野においての野心的な試みがこの本である。「正統的」インド哲学研究者たちは、インド哲学研究はインド思想史研究でなければならないとし、ひたすら調査、整理、陳列のみを心がける。著者はそれに飽きたらず、伝統的なインド哲学と対話しつつ自ら哲学しようとしたのがこの本である。

第三問「本当の『自己』とは何か?」、第四問「無我説は成り立つか?」など、私にとっても興味深いテーマが並んでいる。

◇第三問「本当の『自己』とは何か?」を例に挙げよう。まず、インド哲学における自己論の基礎を築いたヤージュニャヴァルキヤ(紀元前8〜7世紀)の説が紹介される。要点は、自己は、環境のなかにあるけれども、環境とは異なるものであり、環境をその環境たらしめているもの、環境をうちから照らし出すということだ。自己は、心の作用と心と身体と環境とのなかにあるけれども、それらとは異なり、それらを内から照らし出すものである。仏陀の五蘊(心身の五要素)非我説も、この説を正統に継承していおり、のちのインド哲学全般に見られる説である。

認識主体が認識対象になりえないというこの説は、不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラも受け継いでいる。「認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体」であり、「認識主体に属する認識しようとする欲求は、‥‥認識主体を対象とすることはありえない。なぜなら、認識主体を対象とするとすると、認識主体と、認識主体を認識しようとする欲求は、無限後退にするという論理的過失に陥るからである。」

すなわち、認識主体が認識されたとすれば、それはもはや認識対象であるから、それを認識する主体が別になければならない。結局、どこまでいっても、認識主体はつねに私たちの背後に廻り続け、けっして認識はされない。こうして自己は、私たちが知りうるものの中には、けっして入ってこない。そして私たちが知りうるものの総体が世界であるなら、自己は世界の外にあることになる。

釈迦時代の六派哲学の一つであるサーンキヤ哲学では、精神的原理であるプルシャ(純粋精神)と物質的原理であるプラクリチ(根本原質)の二つの実在的原理を想定する。精神原理である自己が、非精神原理(ここから流出したものが世界である)の外にあて、これをじっと見るものだという。サーンキヤ哲学は、ヤージュニャヴァルキヤの自己論の核心を正確に継承したのである。さらに8世紀にヴェーダンタ哲学を不二一元論で一新したシャンカラが、サーンキヤ哲学と唯識学派から大量にアイディアを取り込んで、その自己論を形成したのだという。

◇クオリア問題との関係で
以上の議論は、現代の脳科学におけるクオリア問題を考えるうえでも興味深いであろう。 クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指す。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念である(茂木健一郎)。

私は、クオリア問題の根底に、認識主体はけっして認識されないという「こころ」ももっとも原理的な特徴が横たわっていると思う。「私達の心が持つ様々な属性」の根底には、認識対象になりえないという認識主体の主体性という問題が厳然とあるのだ。この哲学的な問題をどう扱うかを抜きにしてクオリア問題を論じるのはナンセンスだ。それは、前提となるいちばん重要な問題を回避することである。認識対象にはけっしてなりえないという主体の主体性は、「脳を含めての物質の物理的記述」をいかに積み上げても説明することはできない。その原理的な不可能性を、理論的に正確に明らかにすることこそ、クオリア問題を論じるための前提であると思う。

また、対象になりえない主体の主体性という問題は、主体を主体として経験するものの唯一性という問題ともからむ。ここから輪廻する主体は何かという問題も視野に入ってくるような気がする。

◇「本当の『自己』とは何か」という章の最後で著者は、余談として「自己と心身をめぐる問題」に触れている。この「余談」が私にはかなり大きなテーマとなる。

西洋哲学の影響下の哲学者たちは、心身と自己との関係を問題とし、「私」とは、心か身体かと問い続ける。インドの自己論では、自己ははじめから心身と無関係である。自己は、世界の外にある。

たとえば、もし私が失神しているうちに記憶も身体もすっかり改造され、その上で意識を取り戻す。その時に「私は私だ」と発する「私」は、失神以前に発していた「私」が指していたものと同じなのか。

インド哲学の答えは明瞭である。それは同じであり、心身とはまったく無関係なものであるということだ。自己が世界の外にあるなら当然の結論だということか。つまり、自己は心身とはまったく無関係に常住にして不変だからなのか。

インド流に輪廻転生のたとえでも結論は同じである。もし私が死んで牛に生ま変わり、人間であったときの記憶を一切失ったとしても、認識主体としての自己は同じということになる。経験の中心、認識主体の主体性としては唯一で同一だからである。

◆蛭川立『彼岸の時間』第7章の議論をめぐって
かつて別のブログで『彼岸の時間』の中の議論に触れて輪廻の問題を扱ったことがある。そこでの議論を、インド哲学の自己論と重ね合わせて考えてみたい。

蛭川は、輪廻問題との関連で、死んでいった人と同じ記憶をもつコピー人間は、個人と同じ人物とみなせるかどうか、という問題を提出する。コピー人間の問題は、人口頭脳(AI)問題においても出現する。「かりに人間以上の記憶容量と処理速度をもつコンピュータができたとして、死の直前に、今までの人生の記憶などのすべての情報をその機械に移し替えることができたとしたら、そのコンピュタは「自分」だといえるのか」という問題だ。

技術的な問題がすべて解決したとして、「心の転移」によってつくられたコピーは、本当に「私」なのか。さらにもし、外見も中身もまったく同じで第三者に区別できないようなコピー人間が出来たとして、それは本当に「私」なのか。以下は、かつての私の議論。「私」とは、喜び悲しみ、苦しみや楽しみを感じている主体のことである。目の前にいるコピー人間が、外見も記憶も感じ方も私と同一だとしても、私と別個の主体として世界を体験している以上それは「私」ではない。

ここには、経験主体、認識主体の唯一性という問題が潜んでいるが、いずれにせよこの問題は、根源的な難しい問題である。ながながと書いたのは、このインド哲学の本が、クオリア問題も含めた、現代人の哲学的な難問と深くかかわっている問題提起をしているということである。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想21:34comments(0)trackbacks(0)
tape
はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)
評価:
立川 武蔵
講談社
(1992-11)
はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

インド哲学の概論ではなく、「自己と宇宙の同一性の経験」というインド精神のもっとも重要なテーマに焦点を当てたインド精神史であるという。私自身が、こうしたテーマにもっとも関心が深いので興味深く読めた。しかも「仏教の誕生」、「大乗仏教の興隆」、「タントリズム(密教)の出現」という、仏教に関する独立した章を設け、インド哲学との関係、異同、深い相互の影響などにも丁寧に触れているので、学ぶところが多かった。

インド哲学が、古代から何をどのように問いつづけてきたのか、その問いと探究はどのように変化しつつ今日に至るのか。この本で、その4500年におよぶ歴史を振り返ると、ある感慨に打たれる。現代に生きる私が直面し、問い続けている問いが、多くのすぐれた人々によって繰り返し問われ、論争され、探究され続けてきたのだということ。

たとえば、人間の通常の営みを、否定さるべき「俗なるもの」として規定し、その否定の結果として顕現する精神的至福(悟り)を得ようとする態度は、古来「ニヴリッティ・マールガ」(寂滅の道)と呼ばれた。初期仏教の出家僧やヨーガ行者たちが歩むのは、この道であった。

仏教の開祖ブッダは、その意味ですぐれたヨーガ行者であった。古代ヨーガ行者たちは、心作用を統御・止滅させる手段としてヨーガを重視した。そのようなヨーガの伝統は、タントリズム興隆期に明らかな変化を経験した。タントラ的ヨーガは、実践者の心作用を統御し、止滅させる方向にではなく、活性化・増強する方向に働かせる。

タントラ的ヨーガでは、心作用は、「俗なるもの」として否定されることはなく、むしろ肯定さるべき「聖なる」心的・宇宙的エネルギーの活動と考えられた。

「止滅」の道、あるいは現世否定の態度は、「聖なるものの」の顕現を目指すが、その道は、出家僧やヨーガ行者のみがなし得ることだった。時代が下るにつれて、「俗なるもの」が権利を主張しはじめ、「聖なるもの」を犯していたが、この俗化の歴史がインド精神史であるかもしれない、と著者はいう。

私自身が、ヴィパッサナー瞑想を実践しつつも、その背景にある初期仏教の「止滅」の道、ないし現世否定の態度には、どこかで疑問を感じている。その疑問が、実はインド哲学史の全体にかかわる問題であるということを、この本で改めて確認したのである。

仏教はインド哲学のアンチ・テーゼといわれる。この本でも、ブッダの仏教が当時のウパニシャッドの伝統に対するアンチ・テーゼであり、いかに革新的なものであったが具体的に述べられている。インド哲学の伝統全体のなかでブッダの思想がどのように異質で、斬新なものであったかを認識しておくことは重要だと思う。

大乗仏教の興隆期に仏教哲学とバラモン哲学が、互いに批判しあいながらそれぞれの思想を形成していった様子も、分かりやすくまとめられており、興味深い。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想19:44comments(0)trackbacks(0)
tape
ヒンドゥー教 インドという謎 (講談社選書メチエ)
評価:
山下 博司
講談社
(2004-05-11)
ヒンドゥー教 インドという謎 (講談社選書メチエ)

一方に精緻な哲学思想、洗練され高度に発達した「知」の体系としてのヒンドゥー教、他方に庶民の生活や感じ方のレベルで息づくヒンドゥー教。本書は、第一部で生活に溶け込んだヒンドゥー教を語り、第二部で緻密に体系化された哲学思想としてのヒンドゥー教を扱う。もちろん、両者が密接に結びつくものという前提にたっての二部構成である。

この試みが成功しているかどうかは分からないが、私にとっては第二部で古代から現代に至るヒンドゥー教の歴史を、手短に一望できるのがありがたかった。

意外だったのは、南アジアにおけるヒンドゥー教とイスラーム教が、歴史的にかならずしも対立状況になかったのではないかと著者が指摘ているところである。二つの宗教は、互いに「他者」という意識も希薄なまま、互いに敵意を抱かずに共存してきたというのである。そういう前提にたって、ではなぜ現代において両者が対立するのかを著者は問う。そしてその理由をイギリスのインド支配の過程で起こった三つの要因のうちに見る。詳細は省くが、西欧的な宗教観にたったイギリスによる国勢調査、マスコミの発達、西洋的な宗教観の影響を受けたインド人自身によるヒンドゥー教観の確立。その上に、インド・パキスタンの分離独立とそれに続く印パ対立が続くというのだ。

いずれにせよ、ヒンドゥー教が西欧思想と出会うことで自己理解をどのように変貌させ深めていったかは、興味深いテーマであり、本書でも第6章「近代インド思想の展開」でその点に触れられている。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想19:36comments(0)trackbacks(0)
tape
不可触民と現代インド (光文社新書)
評価:
山際 素男
光文社
(2003-11-14)
不可触民と現代インド (光文社新書) 

著者が冒頭で語るインドでの体験――同乗する自動車のひき逃げ事件は、著者の衝撃的な「原体験」であり、それ以来、インド不可触民をはじめ最底辺民衆に関心を持つようになったという。

この本からこれまで知らなかった多くの事実を学んだ。インドのカースト制度は有名だが、では現代インドでカーストが現実にどのように働き、政治的、経済的にどのような意味をもっているのかなど、よく見えていなかった。この本では、不可触民の側からカースト制によるインドの支配と被支配の実態が明らかにされる。

ブラーミン、クシャトリア、ヴァイシャの上位三カーストで人口の15パーセント、指定カースト、その他後進階層85パーセントと言われるが、正確な数字は、1930年にイギリスが調査して以来、一度も公表されていないという。しかし実際にこの上位15パーセントが、今も政治権力、官僚制度、マスコミ、経済、議会等々、あらゆる分野で支配的地位にいるのは紛れもない事実だ。

日本の教科書的な記述でははっきりとは書かれないが、インドの不可触民を中心とした人々は近年、次のような歴史認識を持つに至ったという。つまり、ブラーミン、クシャトリヤ、ヴァイシャたちは、もともと侵略者であり、先住民を追いやり、カースト制を作り、下層民として押し込めた。下層の人々は、その事実を口にすることすら許されなかった。教科書的な記述でカースト制をアーリア人の侵入との関係の中でとらえるにしても、ここまではっきりと述べた記述には出会ったことはなかった。

山際氏は2002年にインドに取材してこの本を書いている。そのインタビューには、この国になお厳然と残るカーストの実態がかかれている。

ある不可触民出身の政府職員は言う、「私たちがどこかに転勤になると、我々のカーストがいち早く次の職場に伝えられます。新任者のカーストが何であるかによって対応の仕方が決められるからです。その人間によってではなく、所属のカーストによって扱いが決まるからなのです。」

別の不可触民出身の女性は、インドの最近の経済自由化について次のように語る、「貧困層は一層貧しく、金持ちは益々肥え太る政策以外の何ものでもありません。これは個人的成功、失敗のレベルの問題ではないのです。‥‥1990年から始まった、世界銀行、IMF主導の経済改革は、結論的にはダリットという弱者社会に大きな打撃を与えるにすぎません。社会主義的経済を資本主義的私企業形態に変えてゆくことは――銀行その他の政府系企業の私企業への移行――リザーブシステムで保証されていた職能分野の縮小を意味します。」

現代インドについて全く別の視点から語る本をと思って、『インドを知らんで明日の日本を語ったらあかんよ』竹村健一、榊原英資(PHP、2005年)のカーストについて触れた部分を読んでみた。

案の定というべきか、
「‥‥巷間でいわれているほど、カーストが問題になることはないようです。ビジネスのネックにはならないでしょう」(榊原)
「カースト制度がどうのこうのっていう話ではないわでですね。インドというと厳然としたカーストをイメージするのは、情報が古い。新しい情報が入らないと、子供のころから聞いている話で、インド観が固まってしまっているということですね。」(竹村)
「実際に、企業が採用についてカーストを云々することはまったくありません」

おそらく最先端のIT関連企業などでは、業種・職種が伝統的なジャーティにないこともあるのか、上のように言える面もあるのかも知れない。しかし、上のような言い方をしてしまうと、山際氏が報告したような深刻な現実は、まったく視野の外に置かれてしまうのだろう。自分が住む国でも、抑圧された人々の現実をあるがまま見るのはむずかしい。まして外国であればなおさらなだろう。この竹村、榊原の対談も、山際氏によるインタビューもそれぞれの立場から見た現実が語られているので、いちがいにどちらが正しいとは言えないだろう。しかし、少なくとも先の対談で語られているほどことは単純でないことは明らかだ。

ところで、カースト問題を低カースト民が自由に触れることすら許されなかった時代は、アンベードカルによって打ち破られたという。ガンディーに対立してヒンドゥーの差別と闘い,インドに仏教を復興した不可触民出身の政治家であるアンベードカル。同著者の『アンベードカルの生涯』(光文社)も併せて読むべきだろう。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想22:06comments(0)trackbacks(0)
tape
アンベードカルの生涯 (光文社新書)
評価:
ダナンジャイ・キール
光文社
(2005-02-16)
アンベードカルの生涯 (光文社新書) 

一読、ぐいぐいと引き込まれる。アンベードカルが不可触民の間でもある程度恵まれた家庭に育ったことは知らなかった。それでも以前他で読んだ記憶のある少年時代の差別は、きわめて強い印象を残す。不可触民であるがゆえに共同井戸の水を飲めず、喉の渇きに耐えかねてこっそり飲んでいるところを見つかり、あざだらけになるほど殴られる。学校でも、誰かが水をのどに流しこんでくれるのを待つほかない。教師たちは、穢れをきらい、面と向かって教えることも、質問することも拒否する。彼が黒板に近づくと、他の生徒は弁当が穢れないように他へ移す等々。

アンベードカルは、藩主バローダに見込まれアメリカに留学し、ついでイギリスに留学する。再度留学したときの限られた時間と費用の中での猛勉強の様子。時間と費用を節約するために昼食も抜いて、大英博物館館内の図書館に通い詰める。同胞の不可触民のためにと超人的な克己奮励するその姿。不可触民を「奴隷状態」から解放しようとするその意志の強さと、政治的な実行力。それでも愛する息子を失ったときには、迫害に対してはあれほど忍耐強かった彼が、深い苦悩に沈潜し、ほとんど死んだように眠る日々が続いたという。

第10章「ガンジーとの戦い」とそれに続く章は圧倒的である。アンベードカルは、ガンジーに向かって「私には祖国がありません」という。「‥‥犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるのでしょう。自尊心のある不可触民なら誰一人といてこの国を誇りに思うものはありません。」

その圧倒的なガンジーとの対決場面。これまでのガンジーの印象が一変してしまうようなその一言一言のやりとり。挙げればきりがないが、インド独立運動の影で、不可触民解放のためのこのような必死の努力がなされていたことに強い感銘を受ける。これまで現代インド史を見る眼がいかに浅薄なものだったかを痛感する。

不可触民が政治の場に参加することを願うアンベードカルの要求に対するガンジーの敵意は、インド各地の不可触民に大きな衝撃を与えたという。そのようなガンジーにアンベードカルは仮借のない攻撃を向けた。それは、強固な意志力をもったガンジーに限りない憤怒の念を生じさせ、その怒りを抑制するのにたいへんな努力を要したほどだった。

しかし、1932年のイギリス政府のコミュナル裁定に反対して行われたガンジーの「死に到る断食」は、アンベードカルを譲歩させ、指定カーストの第三勢力が政治の土俵に上がることを防ぐ結果となった。

ここに書かれているのは、あくまでもアンベードカル側からの記述であるから、ガンジーがそのとき置かれた状況を私なりに確認しないと何とも言えない。それにしてもガンジーを単純に「聖者」とみなすのではなく、不可触民の解放運動との関係をもっと調べる必要があることは十分に分かった。

通読してアンベードカルの巨人たるゆえんが、いやというほど分かった。6000万指定カーストは、アメリカの黒人よりも悲惨だった。その「穢れ」によって同じ井戸の水を飲むことも食事をともにすることも、カーストヒンドゥーの影を踏むことさえも禁じられたのだから。黒人は少なくとも白人の召使いではありえた。インドの不可触民は、2500年にわたって、世界のどの被抑圧民民よりも過酷な状況を耐え忍んできた。その2500年の暗黒の扉をこじ開けたのがアンベードカルだった。彼によってはじめて「不可触民の心の中に人間的尊厳の念と、自尊心、不可触民制への激しい憎しみが湧き起こったのだ。」

アンベードカルの『ブッダとそのダンマ』を読むのはもう少しあとになるだろう。「私は何故仏教を選んだのか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。即ちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良き幸せな人生を送るために必要とするものである。」

アンベードカルの理解する仏教は、きわめて知性的であり、それは「単に宗教であるばかりでなく社会的教理」でもある。

アンベードカルは30万の不可触民とともに仏教に改宗したという。そして今インドには1億人の仏教徒がいるという。どのような仏教が1億人の心をつかんだのだろうか。アンベードカルが説いたような理知的な仏教がそのように多くの人をとらえたのだろうか。インドに「再生」した仏教がどのように人々の心をとらえていったのか、きわめて興味のあるところだ。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想21:42comments(0)trackbacks(0)
tape
不可触民―もうひとつのインド
評価:
山際 素男
三一書房
(1981-01)
不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫) 

インド思想史などを読んでいたのでは、絶対に分からない、これほどに圧倒的な差別の現実を今まで知らなかったという驚き。これほどに情報が発信され受信される世界においても、抑圧される人々が発信の手段すら満足にもたなければ、2億の人々の驚くべき現実がかんたんに遮蔽されてしまうという事実への驚き。ひとつの制度の中で甘い生活を許されてしまった人間は、他者をどんなに苦しめようと、その生活を守っていこうとするのが現実なのだということの、大規模なレベルでの確認。

今後私は、不可触民の視点を意識せずにインドの精神世界に接することはできないだろう。インドの不可触民問題は、たんにインド一国における差別問題なのではない。インドにあれほどに連綿と続いた高い精神性の伝統と、その一方でその伝統と一体となったカースト制度。人間を差別し虐げる文化的装置として、これほどに強烈で徹底的なものはない。その矛盾の深さ。

この本を読んでこれほど強く何かを訴えかけられたように感じるのは、この矛盾の深さによって、人間とは何か、人間の歴史と文化とは何かという根源への問いかけを強いられるからだ。ここに人間とその文化の一面が剥き出しにされているのだ。

「自分たちの一番厭な肉体労働、不潔な仕事の一切を、世襲的に背負わせ、土地をあたえず『農奴』としてただ同然に働かせる。女は男のセックスの慰み物として、好きなように扱う。‥‥こういう存在が一億以上もいて、人々に奉仕してくれるのなら、だれだってそういう制度は、あってくれた方がいい、と思うじゃありませんか。」

こうしてしかも、衣食住については一切責任を負わないのだから、奴隷制よりもなお悪いと、不可触民は訴える。制度として保障されさえすれば、人は誰しもこうした文化装置のうえに乗ったっま、差別から眼をそむける可能性がある。現にそのような事実が3000年も続いてきたのだから。

インドの精神性に引かれれば引かれるほど、カースト制の現実にもっともっと眼を向けていきたいと思う。

JUGEMテーマ:精神世界の本
仏教・インド思想21:28comments(0)trackbacks(0)