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「山の霊力」というタイトルからはやや分かりにくいが、山をめぐる著者独自の観点から原始から古代までの日本の精神史を論じた本だ。多方面からよく調べられ
、山が日本人の精神形成にいかに大きな役割を果たしていたかが、具体的に考察されており、読んで興味尽きなかった。個人的には、三内丸山遺跡や花巻など東北をめぐる旅の途上で読んだ本だったのでなおさら印象深かった。
縄文人にとって山は生き物であり、神であったということが、印象深く語られる。さらに山に重ねあわされた動物のイメージは、大蛇(おろち)ではなかったかという。大蛇信仰は、やがて巨木信仰へと移行する。三内丸山遺跡のやぐら(六本柱)も巨木信仰のルーツか。大蛇の化身である山の巨木を切り、ふもとにつき立て、おろちの生命力を住む場所に注入しようとしたのか。諏訪の御柱祭は、そのような巨木信仰を残すものかもしれない。蛇体、巨木への信仰は、縄ひも(蛇の変形)への信仰につながる。神社のしめ縄は、二匹の蛇がからむ姿そのものだ。さらに縄文土器の縄目模様も、山、大蛇、巨木‥‥と連なる信仰に関係するのか。
日本の縄文時代やその後の古代史について、きわめて情報量も多く、視点も新鮮で、目が開けるような想いで読んだ。
宮崎アニメと、他のアニメその他のエンターテイメントの違いはなにか。それは宮崎作品の面白さのなかに隠されたとくべつの「仕掛け」にあると、著者はいう。それは作品のなかに自然に違和感なく溶け込んでいるため、ちょっと見には「暗号」のようだが、作品の血となり肉となって、宮崎作品のかぎりない魅力と豊かさとなっている。その豊かな背景とメッセージ性を明らかにしようというのが本書の意図だ。読んでなるほどと納得したり、そこまで深い背景が、と驚いたり、そのメッセージに共感したりすることが多かった。
まず冒頭で、『となりのトトロ』の背景に1972年のスペイン映画『ミツバチのささやき』があったという事実が語られる。エリセのこの作品には、キリスト教に抑圧される以前の自然崇拝の古い世界観がもり込まれている。『となりのトトロ』は、この映画から影響を受け、似たようなシーンが見られるし、同様の世界観を表現している。ヨーロッパならローマ帝国以前のケルト人の森の文化、日本なら縄文時代やそれ以前の文化への敬愛が二つの映画の底流をなしている。
『となりのトトロ』にかぎらず、キリスト教や産業文明以前の、自然と人間が一体となった世界への共感は、宮崎アニメのいたるところに見られる。森や森の生き物に共感し、生き物と交流できたり、森から異界への入り込む森の人。キリスト教は、そのような能力をもった人々を魔女として迫害した。宮崎アニメには、そういう魔女的な一面をもった登場人物へのあたたかいまなざしがある。ナウシカにも魔女を思わせる不思議な力があった。狼少女サンにも同じような一面がある。サツキやメイはお化けを見たし、千尋は異界への通路をひらいた等。
この本の中心にあるのは、『もののけ姫』の背後にある五行思想の「暗号」を解くことである。中国生まれの五行思想は、万物を木(生命の象徴)、火、土(大地の象徴)、金、水の五つの原素に分類する。木は燃えて火を生じ、火は灰を生んで土を生じ、土は金を含み、金は水を付着させ、水は木を育てる。逆に木は土から養分を吸い上げ、土は水をせき止める。水は火を消し、火は金属を溶かし、そして金属を斧は木を倒す。
この五行思想が、『もののけ姫』には地下水脈のように張り巡らされているという。たとえば、ひずめが大地に着くたびにそこから草が成長し、一瞬に枯れてしまうというシシ神は、大地(土気)の象徴であろう。銃弾を受けたアシタカは、シシ神によって救われる。逆にタタリ神になった乙事主(猪)の生命は、シシ神によって吸い取られた。大地(土)は、木(生命)に命を与え、そして再び大地に返すのだから、アシタカも乙事主も木気を表しているといえるだろう。森の生き物たちは、シシ神(土気)の恵を受けてのみ、命を育むことができる。シシ神は森の秩序であるゆえ、あらゆる生き物がシシ神を畏れ、敬う。
ところがシシ神(土気)の怒りを買う産業文明(火気)が、森にやってくる。人は森から採取した鉄をタタラという炉で、火を使って銃弾に変える。そして生き物の命を奪う。それだけでなく森そのもの(木気)を奪う。『ミツバチのささやき』で荒れ果てたスペインの荒野が舞台となるが、それは人が深き森を伐採した結果なのだ。森の伐採はひとつの文明を滅ぼすさえある。それが宮崎のいう「祟り」の本質ではないか。宮崎の視野は、文明そのものがもつ「祟り」にまで及んでいるのだ。
『もののけ姫』の底流をなす五行思想をごくかんたんに見た。これだけだとこじつけのように感じられるかもしれないが、実際にはもっと詳しく周到に論じられており、読んで説得力がある。
またシシ神は、木気(大地)の象徴であるだけでなく、神話から洞穴絵画にいたるまで人類の何重もの歴史的なイメージを合わせ持つ存在として造形されている。それを説明するくだりも、興味尽きない。旧石器時代以来、欧州では「有角神」が信仰されていたが、キリスト教の興隆後は悪魔とされた。ケルトの有角神は、ケルヌンメスといわれ、動物の王でありながら、他の生物とともにあった。ここにシシ神の原型があるかもしれない。シシ神は、破壊と再生を一身に体現するという意味でモヘンジョダロのパシュパティのいう有角神にも連なる。さらに『ギルガメッシュ叙事詩』、最後には、旧石器時代の洞穴絵画のひとつ「トロワ・フレールの呪術師」という図像にこそ、始原のシシ神が見いだされる。
「通読して、宮崎アニメがその上質のエンターテイメントのなかに、これほど遠くまで遡る歴史的視野と、文明の根源までを見据える深い批判精神を隠していたということに驚き、再度宮崎アニメを見直したいという思いに駆られた。
もちろんタイトルにあるように「日本人はなぜ日本を愛せないのか」を、その歴史や地理的な背景にも言及しながら、ていねいに考察している。しかし、それだけではなく、日本が無意識に陥ってしまっている西欧崇拝や西欧中心主義の視点はなぜ生まれたのか、日本が失わなかった伝統的な文化の特色がなぜ今世界に必要とされているのか等々、日本人として自覚しておくべき大切なメッセージが、著者の熱い思いとともに込められた本だ。編集部の質問に答えるという対話体で書かれている。実際は、そういう形式をとって分かりやすく、しかし充分に考え抜かれた構成と内容で書かれた本だと思う。
著者は、日本が指導的大国として世界にアピールできる長所は何かと問いかける。多くの日本人は、それに即座に答えられないだろう。自分の国にそんな長所があるとは思えないのだ。しかし実際には、大いに自覚すべき長所がある。ひとつは、異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会という日本社会の特長だ。世界の多くは、宗教的な制約などで日本ほど自由に文化の取り入れができない。日本は、強調的、混合文化社会という自らの文化の価値を世界に積極的にアピールすべきだ。
ふたつめは、日本文化の深層にあるアニミズム的な生命観だ。一神教的な世界観は、神を最高位に置く人間中心主義が濃厚だが、日本人の場合は、生命のみならず山や森にさえ魂を感じ、人も動物もひと続きの循環構造のなかを巡っているという古代的な生命観が、心の深層に流れている。
今、世界の主導権を握っているのは、強烈な自己主張と他者への執拗な排除攻撃を続ける「動物原理」を基本とするユーラシア文明だろう。その中心が一神教文明だ。しかし、世界は今、行き詰っている。アメリカは、これまでのようなずば抜けた超大国としては破綻する兆しが見えてきた。その代わり中国が台頭してきているかに見えるが、実際は無理に無理を重ねて背伸びをし、中華帝国再興を目指して走り続けている。しかし、中国も突如として内部の山積した矛盾が噴出して大混乱に陥る可能性が高い。
その時、世界は壊滅的な大津波に襲われるかもしれない。その危機に面したとき、これまでのあまりに人間中心的だった西欧的世界観の反省にたって、人類と地球環境の共存を最重視する戦線縮小の時代が始まるだろう。日本人には、元来、人間ももろもろの生物の中の一員として、他の生き物たちの「お陰で」生かされているという生命観があった。そうした生命観を自覚的に捉えなおして、そこに、21世紀の危機を乗り越えるのに大いに貢献すべき大切な何かがあることに目覚める必要がある。それが著者の主張だ。
かんたんに要約してしまったが、このような結論にいたるまでに、本書はじつにていねいに様々な具体例を挙げながら考察する。一神教的で牧畜型のユーラシア文明の欠点や、そのような一神教的世界観に立った西欧世界が、どのような横暴によってアジア、アフリカ、南米などを植民地支配してきたか、日本人がそうした西欧文明の悪の部分にいかに無自覚で、お人よしで、西欧コンプレックスから脱しきれていないか等々、興味がつきない考察が、随所に散りばめられている。
今でこそ、日本の文化の基層には、一万年以上続いた縄文文化が根づよく横たわっているという説は、ほぼ認められたといっていいが、このような説が受け入れられていく過程で著者・梅原猛の果たした役割は大きい。するどい直観と洞察力をもとにアイヌ語と沖縄古語の比較などにより、学問的な裏づけも行い、また考古学者など各分野の専門家との対話を通して、この説を説得力あるものにしていったのである。
著者は、日本人の「あの世」観は、縄文時代以来の「あの世」観が連綿と受け継がれているという。太陽や月、そして生きとし生けるものすべてが、この世からあの世、あの世からこの世へと、永遠の循環の旅を続けている。これが日本文化の根底をなす、縄文時代からの日本人の世界観であり、死生観であるという。
一般に、日本人の「あの世」観に深い影響を与えたのは仏教の一派・浄土教だといわれる。確かに浄土教は、日本の主流仏教となったが、浄土教が主流となったのはほぼ日本だけであり、なぜ日本で浄土教が主流となったのかという謎がのこる。著者は、仏教伝来以前から日本に存在した縄文的な世界観にその理由があるのではないかという。魂の不死とその永遠の循環という縄文時代以来の信仰が、無意識のうちの浄土教へと流れ込んでいったからこそ、浄土教が日本の主流仏教となったのである。
一万年以上も続いた土着の文化は、外来思想が入ってきたからといって、かんたんにどこかへ消えてしまうものではなく、少しずつ形を変えながらも文化の底流となって生き続けていく。個々の具体例を通して、そんなことが実感され、縄文時代人が急に身近に感じられたりする本だ。
著者の、アニミズム復興論の原典ともいうべき本だいう。著者の一神教批判は手厳しい。一神教同士の対立(キリスト教とイスラム教など)を見れば分かるように、一神教がかかえる闇が、人類を終末の世界へと導こうとしているという。だからこそ、多神教、アニミズムの世界に生きる日本人にとって、アニミズムの研究は、人類の生き残りをかけた重要な課題だという。
この美しい森と水を守るアニミズムの自然観と世界観こそが、日本人の低力である。一神教を基盤とした「力と闘争の文明」に替わる「美と慈悲の文明」(多神教的文明)が、人類の文明史の潮流を変えていかなければならない。「森と水の美しい地球」を創造し、「生命の文明」の時代を構築していかなければならない。そのためにこそ、アニミズム・ルネッサンスが求められているというのが著者の主張だ。
主張の大枠の意味は分かるのだが、アニミズムという言葉で著者が具体的にどのような信仰(信心)のあり方を示しているのかが語られていないので、全体として説得力が乏しいと感じた。まさか、原始的なアニミズムの信仰そのものに戻ろうということではないだろう。アニミズムを復権するというが、原始のままのアニミズムを復権するということか、現代人にとって必要なアニミズムのエッセンスを復権しようとすることなのか、だとすればそのエッセンスとは何か。そうした大切ことがほとんど考察されていない。
確かにアニミズムの中には、現代人が忘れてしまった大切な心のあり方が隠されているに違いない。それは確かだろう。現代人が学び、復権すべきは、アニミズムの中のどのような面なのか。またそれを復権するためには、どのような方法とプロセスが求められるのか、そのあたりの具体的な提示がないから、読後に説得力のなさを感じずにおれないのだろう。
細部では、興味深い情報も多いが、全体として主張が上滑りしていると感じた。
「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。
世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。
本の前半では、宗教、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。
たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。
一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。
いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。
著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。
アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)
ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。
この本のどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。
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